小説「こころ」について  野口忠男

画像       小説「こころ」について

      ―わたしの漱石ノートより―

      野口忠男



 「こころ」は、夏目漱石の小説の中で、作者の心の暗部をあらわしたものとしては最も高い位置にある作品と思われる。
 作者自身の心の不安は、「三四郎」「それから」「門」「行人」と書き進むにつれ、明治、大正の日本社会の近代化への歩みと逆行するように深まって行き、この作品で頂点に達している。作品中主人公「私」の敬愛する先生は、友人Kを欺いて死に追いやった自己の罪意識を担い続けることに耐えかねて自殺するのである。

 「こころ」は三部構成で書かれている。
 第一部は「先生と私」、第二部は「両親と私」、そして第三部「先生と遺書」である。

 第一部「先生と私」では、主人公である文学を志す私が、大学卒業を控えた夏の鎌倉の海で先生と出会い、その人柄にひかれてゆく様子と、「こころ」全編を流れる主要なテーマである死の前奏曲を思わせる文章が読者に投げかけられている。

 第二部「両親と私」では、父の臨終に立ち会うべく、故郷に帰った私が、病に気弱になった父、看護に疲れた母、忙しい仕事から呼び戻された兄等と再会し、また、田舎での煩わしい親戚づきあいなどが語られるが、ここでも文章の背後に流れる旋律は暗い死の予感である。明治天皇の崩御の報せと乃木大将の殉死の話が色濃くそのことを物語る。
 そして最終局面である父の危篤の場面で、突然に、先生の遺書が私に送られてきて、私は、死のまぎわにある父をそのままにして、東京行きの汽車に乗ってしまうのである。

 第三部「先生と遺書」がこの小説の中心部分である。
 私に託された分厚い先生の遺書には、先生の自死の理由が書かれてある。
 先生は、昔親友のKを欺き、それがために彼を自殺に至らしめたことがあって、それが心の重荷になっていたこと、そしてこれには先生の奥さんも関係しているので、自分のこの手紙は絶対に奥さんには見せないようにと、めんめんと私に頼んでいる。

 奥さんとは、先生が学生の頃下宿していた家のお嬢さんで、軍人未亡人の母親である奥様との二人暮らしであった。
 この頃、子供時代から仲良くしていて同じ大学にかよっていたKが実家とのいざこざで困っているのを見かねて、先生は、下宿先のこの奥様に頼み込んで、Kを自分と一緒に住まわせて貰うことになる。
 先生とKとの二人の関係は初め良好を保っているが、Kがお嬢さんに恋心を抱くようなってからおかしくなる。
 Kは、お嬢さんのことを先生に告白するが、実は先生もお嬢さんのことが好きだったのだ。
 機先を制せられた先生は、Kをだしぬいて、Kに内緒で奥様にお嬢さんとの結婚を申し込んでしまう。奥様は、かねてからお嬢さんと先生との結婚を内心望んでいたので、喜んで承諾する。
 先生はKにお嬢さんへの自分の思いを打ち明けようとするが、Kの気持ちをおもんばかって、なかなか打ち明けられない。そうこうするうちに、嬉しさを隠せない奥様がKにこのことを話してしまう。 Kは、それを聞くと、自分自身の気持ちは先生には何も伝えずに、自殺をしてしまう。

 遺書の中で、Kがお嬢さんへの思いを初めて先生に告白したときの先生のKに対する気持ちを書いた部分がある。
 「私には第一に彼が解しがたい男のように見えました。どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、又どうして打ち明けなければいられない程に、彼の恋が募ってきたのか,そして平生の彼は何処に吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。………つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました」(二七二頁)

 先生の不安は適中し、Kは、夜半に、先生の寝ている隣室で、頸動脈をナイフで切って自殺してしまう。
 Kの亡骸(なきがら)を抱いて、先生の心は暗い闇の中で動転する。
 「私はただ恐ろしかったのです。そうしてその恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺戟しておこる単調な恐ろしさばかりではありません。私は忽然(こつぜん)と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです」(三〇四頁)

 先生が云う運命の恐ろしさとは、他人に欺かれる恐ろしさではなく、自分が自分に欺かれる恐ろしさだった。
 「叔父に欺かれた当時の私は、他(ひと)の頼みにならないことをつくづく感じたには相違ありませんが、他を悪くとるだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。世間はどうであろうともこの己(おれ)は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために見事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識したとき、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです」 (三一五頁)

 自分も頼りにならないと知った先生は、自己の運命的死を予感する。
 「私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察は簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向かって見ると、そうたやすくは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。私は仕舞いにKが私のようにたった一人で淋しくて仕方が無くなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうして又慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横切り始めたからです」(三一七ー三一八頁)

 自分の罪深い運命を感じたとき、先生は深い心の奥底にある原罪の意識にまで辿り着いたように思える。
 「私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃(ひらめ)きました。初めはそれが偶然外から襲ってくるのです。私は驚きました。私はぞっとしました。然ししばらくしているうちに、私の心がそのもの凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生まれた時から潜んでいるものの如くに思われ出して来たのです。私はそうした心持ちになるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑って見ました。けれども私は医者にも誰にも診て貰う気になりませんでした。
 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために知らない路傍の人から鞭(むちう)たれたいとまで思った事もあります。こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つべきだという気になります。自分で自分を殺すべきだという考えが起こります」(三二〇頁)

 先生は死を決意し、自分の死の社会的理由づけとして、明治の精神に殉ずるということを考える。
 「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、そのあとに生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく胸を打ちました。私は明白(あから)さまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からか)いました」(三二三頁)

 「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。………妻の冗談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだと答えました。私の答えも無論冗談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持ちがしたのです」(三二四頁)

 この一ヶ月後天皇の御大葬の夜、乃木大将の殉死事件が起こる。
 先生の遺書は、自分の手紙は奥さんには秘密にしておくようにという、奥さんにたいする優しい配慮の依頼で締めくくっている。
 「私は私の過去を善悪ともに他(ひと)の参考に供するつもりです。然し妻だけはたった一人例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい」(三二七頁)

 先生を自殺にまで追いつめた、先生の心の闇こそが小説「こころ」の中心的主題である。
 先生は己れの自死を「明治の精神に殉死する」と世間的には理由づけているが、真実は、友人Kをも欺く自己の欺瞞性、自己への不信と失望の結果としての、追いつめられた自死なのである。
 ただここでも、真実だけは誰かに知ってもらいたいという、内なる自己の切実な声にうながされて、遺書という形で、主人公の私に自己の真実を託している。読者はそこに漱石の誠実な作家の魂というものを見ることが出来る。


 *参考文献 新潮文庫「こころ」夏目漱石著 新潮社版 


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この記事へのコメント

少女A
2011年07月02日 04:29
夏目漱石、よく読んでいます。
人情深い作家だと思います。
「こころ」いいですね
明治時代、私の先祖の時代・・・
森茉莉曰く「明治は擦りガラスをとおした光の時代だ
」と・・・
ガラスのランプ、正月の国旗、双葉山、(ちがったかな、双葉山って昭和?)
とにかく時代は変わりました・・・
明治は遠くなりけり。
桐一葉・・・・・
面白く読ませていただきました。

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