小説「門」について 野口忠男

小説「門」について
―わたしの漱石ノートより―

野口忠男

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 江藤淳を始めとして、多くの評論家が、漱石の数ある作品の中で、「門」は失敗作であると断じている。だが果たしてそうであろうか。少なくとも、当の漱石自身は失敗作だとはどこにも記してはいない。

 ところで、この作品で作者は一体何を書こうとしたのだろうか。

 明治四十一年(一九〇八年)四十一歳の漱石は、朝日新聞に「三四郎」を連載し、十二月に完結。明治四二年(一九〇九年)に「それから」を、そして四三年(一九一〇年)三月に「門」を書き始め、六月に完結している。
 その二ヶ月後、漱石は転地療養先の静岡県修善寺温泉で多量の吐血をして人事不省におちる。世に言う、修善寺の大患である。幸い、奇跡的に命を取り止め,療養の末十月に帰京する。

 「それから」が「三四郎」のそれからとすると、「門」は、「それから」のそれからを書いたものであり、これら三作品を一連の三部作ととらえるのが通説のようである。            

 さて、「門」の内容を見てみよう。

 小説「門」を作者は二十三の章節に分けて構成している。

 一章から十三章にわたる、小説の六割以上を占める部分に書かれているのは、主人公野中宗助と妻お米(よね)との比較的平穏な日常生活の記述である。
 二人は、東京という新しい都会の片隅で、余人の干渉をあまり受けずに、彼ら二人と下女一人だけの生活をひっそりと送っている。 中年にさしかかっている宗助は、丸の内方面にある役所に実直に勤めており、経済的には、贅沢は許されないが、暮らしに困ることはない。二人の生活をかき乱すものといえば、宗助の弟小六の問題ぐらいである。
 小六は、兄弟とはいえ、宗助とは十才ほど年が離れて降り、父の死後、父との生前の義理から、叔父の佐伯家の世話を受けている。彼は、佐伯の家に住み、学費や食事の面倒一切をみてもらい、学校に通っている。ところが、その叔父が亡くなり、彼の学費は打ち切られることになり、小六の面倒は宗助たちが引き受けざるを得なくなる。
 小六は、しばらくの間兄夫婦のもとに厄介になるが、幸いなことに、宗助がただ一人懇意にしている大家の坂井のはからいで、坂井家の書生になるのはどうだろうか、という話が持ち上がる。
 このあたりまでの叙述については、あの厳しい正宗白鳥も
「はじめから、腰弁夫婦の平凡な人生を、平凡な筆致で諄々と叙して行くところに、私は親しみをもって随いて行かれた」     と好意的な感想を述べている。

 平々坦々な日常を送る宗助だが、お米の懐妊の記述あたりからおかしくなってくる。
 作者は、ここでお米が身重になったのは三度目のことであると打ち明ける。彼女は過去に二度出産に失敗しており、一度目は流産で、二度目も死産だったというのである。こうして満を持しての今回のお産も、臍帯纏絡(さいたいてんらく)の異常出産で、再び死産という痛ましい結果に終わる。
 お米は自分の不運を問うべく、易者の前に座って、将来、子を産み育てることが出来るかどうかを尋ねてみる。易者は、算木を並べたり、筮竹をもんだり数えたりしたのち、おもむろに「貴方には子供は出来ません」と答える。彼女が「何故でしょう」と聞き直す。 このあとのやりとりの様子を作者は次のように書いている。

  その時お米は易者が返事をする前に、又考えるだろうと思った。 ところが彼はまともにお米の眼の間を見詰めたまま、すぐ
 「貴方は人に対して済まない事をした覚えがある。その罪が祟(た た)っているから、子供は決して育たない」と云い切った。お米 はこの一言に心臓を射抜かれる思いがあった。(一三六・七頁)

 ここから十四章に入って読者は二人の暗い過去について知らされる。お米は、はじめは宗助の大学の友人安井の女であったということ、宗助がこれを奪ったということ、つまり、お米との婚姻は略奪婚であって、そのことが二人の上に暗い影を落としているのである。 その二人の所業とその思いを作者は抽象的に次のように記している。 

  宗助は当時を憶(おも)い出すたびに、自然の進行が其所では たりと留まって、自分もお米も化石してしまったら、却って苦は なかったろうと思った。
  大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上 がった時は何処も彼処(かしこ)も既に砂だらけであったのであ る。彼等は砂だらけになった自分達を認めた。けれども何時吹き 倒されたかを知らなかった。
  世間は容赦なく彼等に徳義上の罪を背負(しょわ)した。然し 彼等自身は徳義上の良心に責められる前に、一旦茫然(ぼうぜん) として、彼等の頭が確であるかを疑った。彼等は彼等の眼に、不 徳義な男女(なんにょ)として恥ずべく映る前に、既に不合理な 男女として、不可思議に映ったのである。(一五五頁)

  暴露(ばくろ)の日がまともに彼等の眉間を射たとき、彼等は 既に徳義的に痙攣(けいれん)の苦痛を乗り切っていた。彼等は 蒼白い額を素直に前に出して、其所に?(ほのお)に似た焼き印 を受けた。そうして無形の鎖で繋がれたまま、手を携えて何処ま でも、一所に歩調を共にしなければならない事を見出した。彼等 は親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般 の社会を棄てた。もしくはそれ等から棄てられた。学校からは無 論棄てられた。ただ表向だけは此方(こちら)から退学した事に なって、形式の上に人間らしい跡を留めた。
  これが宗助とお米の過去であった。(一五六頁)

 このあたりまでが十五章までの記述であるが、このあと、突然の宗助の参禅の話が出てくる。

 正月になって、宗助は坂井に呼ばれる。そこで小六の書生の話がまとまるが、そのあとの世間話で坂井の弟のことが話題になる。坂井の弟は「冒険者」(アドベンチュアラー)で蒙古を漂浪(うろつ)いているが、日本に帰ってきており、近々友達を連れて遊びに来るから、話を聞きにこないかという誘いである。そして、その友達というのが満州に渡った安井だということである。

 宗助とお米の一生に、安井は大きな影を落としていた。二人は、安井が中途で学校を退き郷里に帰ったという噂を聞き、また彼が病気で寝ているという知らせを受け、その後、安井が満州に渡ったという音信も受けていた。二人は、それを聞くたびに重い胸を痛めていた。
 この安井との思いがけない再会の可能性は宗助の心に大きな重石となって乗しかかってきた。この心の重圧をどう受け止めるべきか。作者は、この重石を宗助の宗教への関心に向けての動機づけとしている。 

  二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す 事さえしなかった。彼等は安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、 病気に罹らせ、もしくは満州へ駆りやった罪に対して、如何に悔 恨の苦しみを重ねても、どうする事も出来ない地位に立っていた からである。
 「お米、お前信仰の心が起こったことがあるかい」とある時宗助 がお米に聞いた。お米は、ただ、
 「あるわ」と答えただけで、すぐ「貴方は」と聞き返した。
 宗助は薄笑いをしたぎり、何とも答えなかった。(一七二頁)

  必竟(ひっきょう)するに、彼等の信仰は、神を得なかったた め、仏に逢わなかったため、互いを目標(めじるし)として働い た。互いに抱き合って、丸い円を描き始めた。彼等の生活は淋(さ み)しいなりに落ち付いて来た。その淋しい落ち付きのうちに、 一種の甘い悲哀を味わった。文芸にも哲学にも縁のない彼等は、 この味を舐め尽くしながら、自分で自分の状態を得意がって自覚 する程の知識を有たなかったから、同じ境遇にある詩人や文人な どよりも、一層純粋であった。(一七二・一七三頁)

  宗助は夜具を被(かぶ)ったまま、ひとり硬くなって眼を眠っ ていた。彼はこの暗い中で坂井から聞いた話を何度となく反復し た。彼は満州にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知 ろうとは、今が今まで予期していなかった。もう少しの事で、そ の安井と同じ家主の家へ同時に招かれて、隣り合わせか、向かい 合わせに坐る運命になろうとは、今夜晩飯を済(すま)すまで、 夢にも思いかけなかった。彼は寝ながら過去二三時間の経過を考 えて、そのクライマックスが突如として如何にも不意に起こった のを不思議に感じた。(一七四頁)

 こののち、宗助の参禅に向かう彼の心が語られる。

  彼は黒い夜の中を歩きながら、ただどうかしてこの心から逃れ 出たいと思った。その心は如何にも弱くて落付かなくて、不安で 不定で、度胸がなさ過ぎてけちに見えた。(一八〇頁)

  その時の彼は他(ひと)の事を考える余裕を失って、悉く自己 本位になっていた。今までは忍耐で世を渡ってきた。これからは 積極的に人生観を作り易(か)えなければならなかった。そうし てその人生観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。  彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。                          (一八〇頁)

  宗教と関聯して宗助は坐禅という記憶を呼び起こした。昔し京 都にいた時分彼の級友に相国寺(しょうこくじ)へ行って坐禅す るものがあった。当時彼はその迂闊(うかつ)さを笑っていた。
                       (一八〇頁)

  彼は今更ながら彼の級友が、彼の侮蔑に値する以上の動機から、 貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考 え出して自分の軽薄を深く恥じた。もし昔から世俗で云う通り安 心(あんじん)とか立命とかいう境地に、坐禅の力で達する事が 出来るならば、十日や二十日役所を休んでも構わないから遣って みたいと思った。(一八〇頁)

 十八章から二十一章にかけて、漱石は、宗助の鎌倉での十日間の参禅の模様を語っている。

 宗助は、役所の同僚の知人を通して、一通の紹介状を手に入れ、それを持って鎌倉のある寺の門を入る。紹介状の宛名は釈宣道(しゃくぎどう)と書かれている。彼に会って宗助は驚く。釈宣道は、「剃立(そりたて)の頭を青く光らした」「まだ二十四五としか見えない若い色白の」僧であった。「宗助は少し驚いたが、又嬉しくもあった」と作者は二人の出会いを記している。
 この若い僧の指導を受けて宗助の禅修行が始まる。       宣道は宗助に、坐禅をするときの一般の心得や、老師から公案が出ることや、その考案にあまり一生懸命かじり付いてはいけないこと等の助言を与えたのちに、宗助を老師の元へ案内する。
 かくして、いよいよ宗助は老師に引き合わされ、面接をうける、つまり禅語では、相見(しょうけん)が行われ、公案をもらうのだが、その様子を作者は次のように記している。

  老師というのは五十格好に見えた。赤黒い光沢(つや)のある 顔をしていた。その皮膚も筋肉も悉く緊(しま)って、何所にも 怠(おこたり)のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の 胸に彫り付けた。ただ唇があまり厚過ぎるので、其所に幾分の弛 (ゆるみ)が見えた。その代わり彼の眼には、普通の人間に到底 見るべからざる一種の精彩が閃(ひら)めいた。宗助が始めてそ の視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。 「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向かって云 った。「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えてみ たら善かろう」 (一八九頁)

 さて「父母未生以前本来の面目」という公案を渡されて、宗助はこの難題にどう取り組んだか、彼の悪戦苦闘ぶりを漱石は事細かく書き記している。

  宗助には父母未生以前という意味がよく分からなかったが、何 しろ自分というものは必竟何物だか、その本体を捕(つら)まえ てみろと云う意味だろうと判断した。(一八九・一九〇頁)

  彼から云うと所謂(いわゆる)公案なるものの性質が、如何に も自分の現在の縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今 腹痛で悩んでいる。その腹痛という訴えを抱いてきてみると、あ にはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出 して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。 考えろと云われれば、考えないではないが、それは一応腹痛が治 まってからの事でなくては無理であった。(一九〇頁)

 宗助は、火鉢の灰の中に線香を燻(くゆら)してから、教えられた通り、座布団の上に腰を下ろし、左の足首を右の足の股(もも)の上に乗せて、所謂半珈(はんか)の姿勢をとって壁に向かって坐った。
 暫く坐っていると、次々と妄想が湧いてきた。

  彼は考えた。けれども考える方向も、考える問題の実質も、殆 ど捕(つら)まえ様のない空漠なものであった。彼は考えながら、 自分は非常に迂闊な真似をしているのではなかろうかと疑った。 火事見舞いに行く間際(まぎわ)に細かい地図を出して、仔細(し さい)に町名や番地を調べているよりも、ずっと飛び離れた見当 違いの所作を演じている如く感じた。
  彼の頭の中を色々なものが流れた。そのあるものは明らかに眼 に見えた。あるものは混沌として雲の如くに動いた。何所から来 て何所へ行くとも分からなかった。ただ先のものが消える、すぐ 後から次のものが現れた。そうして仕切りなしにそれからそれへ と続いた。頭の往来を通るものは、無限で無数で無尽蔵で、決し て宗助の命令によって、留まる事も休む事もなかった。断ち切ろ うと思えば思う程、滾滾(こんこん)と湧いて出た。
  宗助は怖くなって、急に日常の我を呼び起こして、家の中を眺 めた。室は微(かす)かな灯で薄暗く照らされていた。灰の中に 立てた線香は、まだ半分しか燃えていなかった。宗助は恐るべく 時間の長いのに始めて気が付いた。(一九一頁)

  眼が覚めると枕元の障子が何時の間にか明るくなって、白い紙 にやがて日の逼(せま)るべき色が動いた。昼も留守を置かずに 済む山寺は、夜に入っても戸を閉(た)てる音を聞かなかったの である。宗助は自分が坂井の崖下の暗い部屋に寝ていたのでない と意識するや否や、すぐ起き上がった。縁へ出ると、軒端に高く 大サボテンの影が眼に映った。宗助は又本堂の仏壇の前を抜けて、 囲炉裏が切ってある昨日の茶の間へ出た。其所には昨日の通り宣 道の法衣(ころも)が折釘に懸けてあった。そうして本人は勝手 の竈(かまど)の前にうずくまって、火を焚(た)いていた。宗 助を見て、
 「お早う」と慇懃(いんぎん)に礼をした。「先刻(さっき)お 誘い申そうと思いましたが、よく御寝(やすみ)の様でしたから、 失礼して一人で参りました」
  宗助はこの若い僧が、今朝夜明けがたに既に参禅を済まして、 それから帰ってきて、飯を炊(かし)いでいるのだという事を知 った。
  見ると彼は左の手で頻(しき)りに薪を差し替えながら、右の 手に黒い表紙の本を持って、用の合間合間にそれを読んでいる様 子であった。宗助は宣道に書物の名を尋ねた。それは碧巌集とい うむずかしい名前のものであった。(一九二・一九三頁)

 宗助は、宣道の様子を見ていて、ただ黙って坐って分からぬ事を闇雲に考え、頭を疲れさせるより、禅の書物でも借りて読んだ方が良い思案が浮かぶのではないか、と思い付き、宣道に相談するが、宣道は、読書ほど修行の妨げになるものはない、と言って、にべもなく宗助の考えをしりぞける。そうして、「今夜はお誘い申しますから、これから夕方までしっかりお座りなさいまし」と坐禅の励行を勧める。つまり、今夜は老師の元へ案内するから、公案の答えをしっかり用意しておけ、という言外の意味である。

*     *     *

 第十九章は、宗助の独参の場面で、この本のクライマックスと思われる。
 彼が、自分に与えられた公案に対して、自分なりに考えるだけ考えて出した解答、つまり、見解(けんげ)を老師の前に提示する場面で、作者も力を込めて書いている。少し長くなるが、この部分は全文をそのまま披露したい。

  「危険(あぶの)う御座います」と云って宣道は一足先へ暗い 石段を下りた。宗助はあとから続いた。町と違って夜になると足 元が悪いので、宣道は提灯(ちょうちん)を点けてわずか一丁ば かりの路を照らした。石段を下り切ると、大きな樹の枝が左右か ら二人の頭に蔽(お)い被さる様に空を遮った。闇だけれども蒼 い葉の色が二人の着物の織目に染みこむ程に宗助を寒がらせた。 提灯の灯にもその色が多少映る感じがあった。その提灯は一方に 大きな樹の幹を想像する所為(せい)か、甚だ小さく見えた。光 の地面に届く尺数も僅(わずか)であった。照らされた部分は明 るい灰色の断片となって暗い中にほっかり落ちた。そうして二人 の影が動くにつれて動いた。
  蓮池を行き過ぎて、左へ上(のぼ)るところは、夜はじめての 宗助にとって、少し足元が滑(なめら)かに行かなかった。土の 中に根を食っている石に、一二度下駄の台を引っ掛けた。蓮池の 手前から横に切れる裏路もあるが、この方は凸凹(とつおう)が 多くて、慣れない宗助には近くても不便だろうと云うので、宣道 はわざわざ広い方を案内したのである。
  玄関を入ると、暗い土間に下駄が大分並んでいた。宗助はこご んで、人の履物を踏まない様にそっと上へ上った。室は八畳程の 広さであった。その壁際に列を作って、六七人の男が一側(ひと かわ)に並んでいた。中に頭を光らして、黒い法衣を着た僧も交 じっていた。他のものは大概袴(はかま)を穿(は)いていた。 この六七人の男は上がり口と奥へ通ずる三尺の廊下口を残して、 行儀よく鉤(かぎ)の手に並んでいた。そうして、一言も口を利 かなかった。宗助はこれ等の人の顔を一目見て、その峻刻(しゅ んこく)なのに気を奪われた。彼等は皆固く口を結んでいた。事 ありげな眉を強く寄せていた。傍(そば)にどんな人がいるか見 向きもしなかった。如何なるものが外から入ってきても、全く注 意しなかった。彼等は活きた彫刻の様に己を持して、火の気のな い室に粛然と坐っていた。宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に、 一種厳(おごそ)かな気が加わった。
  やがて寂寞(せきばく)の中に、人の足音が聞えた。初めは微 (かす)かに響いたが、次第に強く床を踏んで、宗助の座ってい る方へ近づいて来た。仕舞いに一人の僧が廊下口からぬっと現れ た。そうして宗助の傍を通って、黙って外の暗がりへ抜けていっ た。すると遠くの奥の方で鈴(れい)を振る音がした。
  この時宗助と並んで厳粛に控えていた男のうちで、小倉の袴を 着けた一人(いちにん)がやはり無言のまま立ち上がって、室の 隅の廊下口の真正面へ来て着座した。其所には高さ二尺幅一尺程 の木の枠の中に、銅鑼(どら)の様な形をした、銅鑼よりも、ず っと重くて厚そうなものが懸かっていた。色は蒼黒く貧しい灯に 照らされていた。袴を着けた男は、台の上にある撞木(しゅもく) を取り上げて、銅鑼に似た鐘の真中を二つ程打ち鳴らした。そう して、ついと立って、廊下口を出て、奥の方へ進んで行った。今 度は前と反対に、足音が段々遠くの方へ去るに従って、微かにな った。そうして一番仕舞にぴたりと何処かで留まった。宗助は坐 (い)ながら、はっとした。彼はこの袴を着けた男の身の上に、 今何事が起こりつつあるだろうかを想像したのである。けれども 奥はしんとして静まり返っていた。宗助と並んでいるものも、一 人として顔の筋肉を動かすものはなかった。ただ宗助は心の中で、 奥からの何物かを待ち受けた。すると忽然(こつぜん)と鈴を振 る響が彼の耳に応えた。同時に長い廊下を踏んで、此方へ近づく 足音がした。袴を着けた男は又廊下口から現れて、無言のまま玄 関を下りて、霜の裡に消え去った。入れ代わって又新しい男が立 って、最前の鐘を打った。そうして、又廊下を踏みならして奥の 方へ行った。宗助は沈黙の間に行われるこの順序を見ながら、膝 に手を乗せて、自分の番の来るのを待っていた。
  自分より一人置いて前の男が立って行った時は、やや暫(しば ら)くしてから、わっと云う大きな声が、奥の方で聞こえた。そ の声は距離が遠いので、劇しく宗助の鼓膜を打つ程、強くは響か なかったけれども、たしかに精一杯威を振(ふる)ったものであ った。そうして只一人の咽喉(のど)から出た個人の特色を帯び ていた。自分のすぐ前の人が立った時は、愈(いよいよ)わが番 が回って来たと云う意識に制せられて、一層落付(おちつき)を 失った。
  宗助はこの間の公案に対して、自分だけの解答は用意していた。 けれども、それは甚(はなは)だ覚束(おぼつか)ない薄手のも のに過ぎなかった。室中に入る以上は、何か見解(けんげ)を呈 しない訳に行かないので、やむを得ず納まらないところを、わざ と納まった様に取繕った、その場限りの挨拶であった。彼はこの 心細い解答で、僥倖(ぎょうこう)にも難関を通過してみたいな どとは、夢にも思い設けなかった。老師を胡麻化(ごまか)す気 は無論なかった。その時の宗助はもう少し真面目であったのであ る。単に頭から割り出した、あたかも画にかいた餅の様な代物  (しろもの)を持って、義理にも室中に入らなければならない自 分の空虚なことを恥じたのである。
  宗助は人のする如くに鐘を打った。しかも打ちながら、自分は 人並みにこの鐘を撞木で敲(たた)くべき権能がないのを知って いた。それを人並みに鳴らしてみる猿の如き己を深く嫌忌(けん き)した。
  彼は弱みのある自分に恐れを抱きつつ、入り口を出て冷たい廊 下へ足を踏み出した。廊下は長く続いた。右側にある室(へや) は悉く暗かった。角を二つ折れ曲がると、向(むこう)の外れの 障子に灯影が差した。宗助はその敷居際に来て留まった。
  室中に入るものは老師に向かって三拝(さんぱい)するのが礼 であった。拝しかたは普通の挨拶の様に頭を畳に近く下げると同 時に、両手の掌(てのひら)を上向に開いて、それを頭の左右に 並べたまま、少し物を抱(かか)えた心持に耳の辺(あたり)ま で上げるのである。宗助は敷居際に跪(ひざま)ずいて形の如く 拝を行った。すると座敷の中で、
 「一拝で宜しい」と云う会釈があった。宗助はあとを略して中へ 入った。
  室の中はただ薄暗い灯に照らされていた。その弱い光は、如何 に大きな書物をも披見せしめぬ程度のものであった。宗助は今日 までの経験に訴えて、これ位微かな燈火(ともしび)に、夜を営 む人間を憶(おも)い起す事が出来なかった。その光は無論月よ りも強かった。かつ月の如く蒼白い色ではなかった。けれどもも う少しで朦朧(もうろう)の境に沈むべき性質(たち)のもので あった。
  この静かで判然(はっきり)しない燈火の力で、宗助は自分を 去る四五尺の正面に、宣道の所謂老師なるものを認めた。彼の顔 は例によって鋳物(いもの)の様に動かなかった。色は銅(あか がね)であった。彼は全身に渋に似た柿に似た茶に似た色の法衣 (ころも)を纏(まと)っていた。足も手も見えなかった。ただ 頸(くび)から上が見えた。その頸から上が、厳粛と緊張の極度 に安んじて、何時まで経(た)っても変る恐を有せざる如くに人 を魅した。そうして頭には一本の毛もなかった。
  その面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で 尽きた。
 「もっと、ぎょろりとした所を持って来なければ駄目だ」と忽ち 云われた。「その位な事は少し学問をしたものなら誰でも云える」  宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音が烈しく 響いた。             (一九六~二〇〇頁)

     *     *     *

 宣道に励まされて、宗助の修業はどうにか続けられたが、七日目頃宗助は、突然、安井のことが頭に浮かび、また留守中のお米の事も心配になった。安井が坂井の家に屡々来るようなことになるなら、今のうちに坂井の借家を転居した方がいいのではないか、と思い始めた。
 かくして、宗助の修行は十日程で尽きた。彼は、自分の様なものには到底悟りは開かれぬ、と考えをまとめ、禅修行の中止を宣道に告げた。
 宣道は残念がって、しきりに宗助に修行の続行を勧めたが、宗助の決心を変えることは出来なかった。
 憔悴して山門を出る宗助の気持ちを作者は次の様に記している。

  自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、 敲いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、
 「敲いても駄目だ。独りで開けてはいれ」という声が聞こえただ けであった。彼はどうしたらこの門の閂(かんぬき)を開ける事 が出来るかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中 で拵えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事 が出来なかった。……
  彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮ってい た。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でも なかった。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮 れるのを待つべき不幸な人であった。  (二〇八頁)

 宗助は、宣道と連れだって、老師の元へ暇乞(いとまご)いに行く。宣道は二人のために茶を点(た)てた。

 「東京はまだ寒いでしょう」と老師が云った。「少しでも手掛り が出来たからだと、帰ったあとも楽だけれども。惜しい事で」
  宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、又十日前 に潜(くぐ)った山門を出た。甍(いらか)を圧する杉の色が、 冬を封じて黒く彼の後に聳えた。  (二〇八頁)

 二十二章は、禅寺の修行で疲れ切って戻ってきた宗助が以前の日常生活に立ち帰る記述である。
 家に戻った宗助は、お米の屈託のない明るい言葉に元気を取り戻す。そうして二日目に坂井の家を訪れ、気掛かりだった安井について、坂井の弟をだしにして、それとなく聞いてみる。と、坂井の弟は四五日前に満州に帰り、安井も一緒だという。つまり、一番心配していた問題が宗助の留守の間に片付いていたのである。

 二十三章の結末の終章では、月が変わって、宗助の月給が五円上がり、気掛かりだった弟の小六は坂井の好意で坂井家の書生として住み込み、彼の学費は、小六自身が叔父の息子に談判して、叔父側から半分が出ることになり、宗助は半分だけ負担ということで決着が付く。
 かくして、宗助とお米の生活は再び以前と同じ平穏な日常に立ち帰る訳だが、その平穏はいつ崩れるかも知れない黒い雲を抱えているという作者の思惑の記述で締めくくっている。

  お米は障子の硝子(ガラス)に映る麗(うらら)かな日影をす かして見て、
 「本当に有難いわね。漸くの事春になって」と云って、晴れ晴れ しい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を切りながら、
 「うん、然し又じきに冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏 (はさみ)を動かしていた。   (二一七頁)                         
*     *     *

 以上でこの小説は終わるのだが、一般の読者としては、読み終わった後で、宗助とお米が裏切った安井という最も関係の深い人物がまともに登場もせずに物語が終わってしまうことに期待を裏切られた思いを抱くであろう。ましてや、普通人にとっては余り縁のない禅修行の詳細を読まされる事について、この小説への興味を失うかも知れない、また、世の評論家たちは、それをもって、失敗作と断じるのは当然かも知れない。
 しかし、当の漱石自身は、冒頭にも書いたように、この作品を失敗作とは思っていないようである。では彼は、何を、どう思ってこの作品を書いたのだろうか。
 私の臆断はこうである。すなわち漱石は、宗助の禅修行の場面を書きたくて、この作品を書いたと。それにしては漱石は、前半で、宗助とお米という世間から逃避した夫婦の、日陰者の日常をあまりにも見事に書き上げており、正宗白鳥ばかりでなく谷崎潤一郎にも褒められている。谷崎は、
「我々もならう事なら宗助のような恋によって、落ち付きある一生を送りたいと思う。けれどもそれは今日の青年に取っては到底空想にすぎないであろう」(「門を評す」)と述べて賛辞を送っている。 だが白鳥も谷崎も、江藤淳も、漱石から見れば、読み違いをしていると思われるかも知れない。たしかに漱石は生活者の側に立った小説を重視して二人の生活を見事に記述しているが、彼が真に書きたかったのは、後半部の宗助の禅修行による挫折の体験だと、視点を変えて見てみると、彼がこの小説に「門」という題名を付したことも納得できるのである。
 
 漱石は、明治二十七年二十七歳のとき、親友菅虎雄の紹介で、鎌倉円覚寺に十五日間の参禅をしている。指導の老師は名僧の誉れ高い釈宗演である。彼が寝起きした宿坊は帰源院で、小説では「一窓庵」となっている。帰源院で身の回りの世話を焼き、親切にいろいろと教えてくれた若い僧は釈宗活で、小説「門」に出てくる釈宣道のモデルである。
 彼は、大きな期待を抱いて円覚寺の山門を潜り、宗演から与えられた公案に日夜呻吟して取り組んだが、結局悟りは得られないまま下山せざるを得なかった。

 漱石は、大正五年十二月九日に胃潰瘍大内出血で亡くなっているが、その二年前に知り合った二人の若い雲水と最後まで文通を重ねている。
 そしてこの二人の雲水が、亡くなる二ヶ月ほど前に、東京に用事があって、尋ねてきたとき、八日間も自分の家に滞在させて、何くれとなく親切に面倒をみている。
 そのあと死の三週間ほど前に、二人の雲水のうちの一人、富沢敬道に手紙を書いているが、その最後を次のような言葉で結び、二人の禅修行に対する尊敬の気持ちをあらわしている。

  変な事をいひますが、私は五十になって始めて道に志す事に気 のついた愚物です。其道がいつ手に入るだろうと考えると、大変 な距離があるように思われて、吃驚しています。あなた方は私に は能く解らない禅の専門家ですが、矢張り修行に於て骨を折って いるのだから、五十迄愚図々々していた私よりどんなに幸福か知 れません。又どんなに殊勝な心掛か分かりません。私は貴方方の 奇特な心得を深く礼拝しています。あなた方は私の宅へ来る若い 連中より遙かに尊とい人達です。是も境遇から来るには相違あり ませんが、私がもっと偉ければ、宅へ来る若い人ももっと偉くな る筈だと考えると、実に自分の至らない所が情けなくなります。  飛んだ蛇足を付け加えました。御勉強を祈ります。 以上
    十一月十五日  夏目金之助
富沢敬道様
(「夏目漱石と帰源院」二七頁)

 このように、漱石の禅に対する関心の深さは並々ならぬものがある。
 後年彼はかの有名な「則天去私」という言葉を残しているが、彼の終生の思いの中に、二十七歳の参禅失敗の挫折の体験は、彼が憧れた「天」が、彼の前に姿を現さず、匂いだけ残して飛び去ってしまった慚愧の念として留まっていたのではなかろうか。それが小説「門」執筆の動機のような気がしてならない。
 正に門は、その時以来死に至るまで、漱石の前には開かなかったのである。



    参考文献  新潮文庫 「門」 夏目漱石著 新潮社版
          「夏目漱石と帰源院」 鎌倉漱石の会発行



平成二十二年 三月



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