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zoom RSS 短編小説 「悦子」 大山倫英(文学サロン会員)

<<   作成日時 : 2018/03/18 17:56   >>

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短編小説 「悦子」 

大山 倫英

(文学サロン会員)



 悦子は俯いたままじっとコーヒーのグラスを見つめている。どうやらそうらしく見える。少なくとも目が開いているのは間違いない。間違いないが、視線の動きというものがまるでない。一瞬のよそ見さえない。そもそも全体がぴくりとも動かない。膝の上に奇麗に揃えた手からすぼめた肩からうなだれた頭から金縛りにあったように動かない。瞬きすらしない。魚類には瞼が無いと言うが、そういえば魚に顔立ちが似ていなくもない。狐に憑かれているようでもある。グラスの中の黒い液体に過去を映し出して、それをうっとり眺めている少女のようでもある。そうかと思えば何も見えていないようでもある。ただ呆然としている。長年修行を積んだ禅僧のようで、見るともなく物を見ているようでもある。しかし結局どれも違うようでもある。

 団子みたいなつぶれた鼻をしている。その上に小さな瞳が二つある。ほとんど黒目で、繰り返すが魚の眼に似ている。ずっと見ていると、それがぽっかり穴になっていく。やがて木肌に空いた二つの洞に見える。もはや眼ではなく節穴になる。その奥からずるずるっと謎が這いだしてきて、イソギンチャクの触手のように揺れている。コーヒーグラスの周りをさまよっている。謎に包まれてグラスはびっしょり冷や汗をかいている。氷も融けてかさが増えている。増えた分だけ水面で透明な層になっている。しかし成す術もない。悦子は依然一口も手をつけない。ゆうに三十分は経つだろうが、ただじっとして触手をふらふら伸ばしている。ストローさえまださしていない。ストローは袋を被ったまま脇に大大しく寝ている。そうしてその隣には未開封のまま袋に入ったサンドウィッチが置いてある。

 碁盤の目のように規則正しく並べられたテーブルのほとんどが埋まっている。この喫茶店はいつ来ても繁盛している。どこを向いても人間がいる。老人から若者まで姿形はそれぞれだが皆与えられた席にぴったり収まってはみ出さない。店内にはトランペットのソロが緩やかに流れている。椅子を引く音やキーボードを打つかちゃかちゃいう音が聞こえるが気にならない。それ以外はほとんど人の話す声さえ聞こえてこない。実に静かなものである。自由でありながら引き締まったような統一感と緊張感がある。他人を邪魔しないことで一つながりの輪になっている。ここには秩序があり、この均衡を破る者は悪、そういう暗黙の了解がある。
 その中で悦子は網膜に焼きつく真っ赤なワンピースを着ている。仇を討ったばかりの侍のように返り血を一身に浴びている。血のしたたる刀をぶら下げ、無表情に仇を見下ろしたまま佇んでいる。飽きずにいつまでもそうしている。こちらは目がちかちかして見ているだけで疲れる。世界のなだらかな表層からそこだけ浮き出して迫ってくる。この世の果てまで容赦なく迫ってくる。見まいとしても見渡すなら必ず邪魔をしてくる。目が合えば襲いかかってきそうに見える・正面から袈裟に斬られる。

 悦子ほど五月蝿い人間もそういない。といって大声を出すわけではないし、暴れるわけでもない。むしろ悦子ほど静かな人間もそういない。操り糸の切れた人形のように首をがくっと垂れて大人しく座っているだけ。年の頃などまるで分からない。五十は超えているように思うが彼女にあっては年齢というものがどこかでねじ曲がっている。積み直ねた年月はピサの斜塔のように傾いて真っすぐには建っていない。子供の頃に玉手箱を開けてしまって突然年寄りになったような顔をしている。化粧っ気はなく、分厚い唇には血の気が通っていない。肌が紺色にくすんでざらざらしている。髪の毛はギリシヤ神話のメデューサのようにもじゃもじゃで、頭髪たる蛇は今まさに飛びかからんとして四方八方に牙を剥いている。

 隣に座っている若者などひどく危ない。悦子の髪の毛が襲いかかろうとしているし、悦子の節穴から伸びる触手は手探りを繰り返すうちに肩に触れ、首を伝ってついに頬を撫でようとしている。そのうち喰われるかもしれない。けれど若者は一向平気なもので、己の大事に没頭している。いや没頭しているとは言い過ぎで、実のところ何気なくしている。尻の先で浅く腰かけ、強いすね毛の足を投げ出す格好で欠伸をしたりスマホをいじったりしている。これはかなり油断しているから危ない。

 けれども若者は寸でのところで立ち上がった。危険を感じたわけではあるまいが、トイレにでも行くらしい。狭いところを立ち上がって、悦子との席の隙間を抜ける時に、腰がつかえて悦子のテーブルをぐいと向こうへ押した。四角いテーブルは首を傾げたが悦子は顔さえ上げない。目の前の変化に対して意識の僅かな揺らぎさえ見せない。やっぱり節穴から触手をふらふらさせたまま彫像のごとくじっとしている。コーヒーグラスは難を逃れた。テーブルが動いたので悦子の触手は今は何もない木目を舐めている。

 しばらくして男が戻ってきた。歩きながらまだスマホを覗いている。この調子だと用を足す最中にも覗いていたに違いなく、衛生面からはあまり感心できないが、前が見えないのに障害物に突き当たらないのは大したものである。とはいえやはり細かい所は注意が行き届かないらしい。戻り際に性懲りもなく悦子のテーブルをまたぐいと曲げてしまった。すると突然悦子の触手がすっと引っ込んだ。カタツムリの角を指で触るとすっと引っ込むあの具合である。悦子の動きかぴたりと止まった。一瞬の、沈黙があった。それから悦子はおもむろに右手を前へ差し出す。まるで五体は文字通り五体の生き物から成っていて、そのうちの右手だけが他とは関係なく動きだしたというように、恐る恐るテーブルの端に触れ、掴み、細かく何度かに分けて、テーブルを手前に引いて元の位置へと戻した。そうしてそれから、まるで夢から醒めたみたいに悦子は不意に顔を上げ、笑った。いや笑ったのでは無かった。笑うように目を閉じただけで、そこへ先ほどの右手を持ってきて、鼻の頭をゆっくりと掻き、眉間を掻き、それからまた鼻を掻いて、赤いワンピース、その袖口で鼻をごしごしとしごいて、サンドウィッチの包みに手を伸ばし、開けて、一切れを頬張ると、くしやくしやに顔をしかめた。

 ひどくまずそうに食べるものだ。そのくせ、顔を梅干しみたいにしてたった一口を長い開咀嘔している。噛みしめているわけではなく、ただその必要があってしているようで、消化のため、動物的であり、牛か馬に見える。けれど実際まずかったのかもしれない。一口食べたきりで、残りはテーブルの上へ置いてしまった。そうしてまた元の姿勢へ、両手を揃えて膝の上に置いて、頭をがくっと垂れて、瞑想、けれども触手が出てこない。悦子の節穴は………いや節穴ではない、笑っている。正真正銘笑っている。頭も、肩も、わずかだが震わせながら、まさしく悦子が笑っている。

 そうして悦子は立ち上がった。誰かに呼ぱれでもしたように、まるで用意の無いところから、頭上に戴く雲を、突き破って立ち上がった。誰も予想のしなかったことだ。背は低く、体型がずんぐりしていて、下っ腹まで出て、その上真っ赤でタイトなワンピースまで着ているものだから、格好は良くない。  片手にコーヒーグラスを持って、もう片方の腕にはハンドバッグをぶら下げて、悦子が恐る恐る足を踏み出す。彼女は一歩歩くごとに立ち止まる。二歩、それ以上は続けて歩くことが出来ない。凍り付いたように必ず立ち止まり、そうしてまた一歩からやり直す。そのようにして整然と並んだ人々の間を俯いたままゆっくりと歩いていく。

 入口の自動扉が開く。悦子がゆっくりとくぐり抜けていく。勝手に開いたものがまた勝手に閉まるとは限らない。全く信用ならない。だから悦子は振り返って扉が閉まりきるまでその場で待っている。立ち尽くす赤い女は人々に別れを告げているように見える。扉が閉まり、悦子の姿はガラス越しになる。悦子は後ろを向いて、また歩き川す。次第に遠ざかっていく。一歩一歩地面を確かめるように行く。しくじれば崖の底まで真っ逆さまに転がり落ちる。  






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