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zoom RSS 短編「私の妻」 木村昭仁 (二松学舎大学 213A1063)

<<   作成日時 : 2014/11/24 07:18   >>

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短編
私の妻
木村昭仁
二松学舎大学 213A1063


私はドーナツを揚げていた。
ぷつぷつと油が弾けるのを見ていたら、妻の言葉を思い出した。
最初に強火で、一度下げて、最後にまた強火。

新しいことを覚えられなくなった妻だが、昔のことはよく覚えていた。
一緒に登った山の名前を妻はずらずらと並べた。
私の料理好きは元々妻からうつったものだ。
永井は男の趣味ではないと言うが、
僅かなバニラエッセンスが出来を決定的に変えてしまうところは
詩を作るのに似ていると思う。
妻は立つのさえ億劫になってからも、菓子作りはやりたがった。
一度焼けた平鍋を掴んでからは禁止になったが、
私がいい匂いをさせていれば寝床から出てきて丸椅子に座り眺めていた。
遠くからサイレンの音が聞こえる。
自分を捕まえに来るときも、サイレンは鳴らすのだろうか。
鳴らして来たら逃げてしまうかもしれないから、やはりそっと来るのだろう。
カンカンと鳴っているのは消防車のサイレンだというのに、
そんなことをいちいち考えて平静を保とうとしている自分が情けなかった。

揚がったドーナツを皿に移し、居間に運んでいると、玄関から、
あの、と声がかかった。
返事をすると隣家のおばさんであった。
「お客さんですよ」
客というのは上等な生地のスーツを着たカイゼル髭の男であった。
南国の果物のような匂いをさせていて、
その男に近づいただけで生温かい風を受けているようだった。
「この人がお宅を覗いていたから」
おばさんは髭男を不躾に見回し、訝しんでいる。
ドーナツを勧めても男のことが決着をつけるまでは気が進まないようであった。
髭男が名乗ろうとするのを私は止めた。どこかで会った記憶がある。
ここで聞いてしまうと老化が進む、と妻は言っていた。
そうだ、姪の英語の先生だ。

髭男は戦争中はアメリカにいたこと、その後日本で通訳を始めたことを話した。
休みを見つけては世話になった人を回っているのだという。
取りたてて交流のなかった私まで訪ねてくるのだから随分義理堅いものだと笑うと、
髭男は白い歯を覗かせて、高村さんには鰻を教わった恩がありますから、と言った。
この男に鰻を御馳走したことなど覚えていないが、何せもう三十年も前のことである。
合わせて笑っている私を見ておばさんもドーナツに手を伸ばした。

髭男が帰ってすぐに電話が鳴った。
ちょうど散歩から戻った永井が出て、おばさんのことを呼んだ。
おばさんは田舎にうちの番号を教えていて、たまに話していく。
「今日は長くしませんからね」
おばさんはドーナツをひとつ持って廊下に出ていった。
永井はそこで同人誌の挿絵を書いていていた男に会った、と言った。
ここを訪ねていたんじゃないのか。
私がそんな男は知らないと言うと、
どうも永井が言う男とはカイゼル髭のことである。
そういえばそんな気もする。
当時の記憶を二人で掘り返してみたところ、
妻が連れて来たのではないかということになった。

永井はカツレツを食べたからドーナツはいらないと言うので、
帰るおばさんに全て持たせた。
永井は調べものがあると言ってまたどこかに出掛けていった。
キッチンには油の匂いが残っていた。私は窓を開けて、煙草に火をつけた。
振り返ると、妻が丸椅子に座っていた。煙草の火を消した。
私は妻にドーナツを渡した。
妻は受け取ると椅子の上に立ちあがり、戸棚の上を登って行った。
私もそれを追うと、妻はますます登っていき、
いつの間にか棚の頂上から隣りの阿多多羅山に飛び移ろうとしていた。



※作品は講義「小説作法実践」で課題自由に沿って書かれた400字5枚の短編です。
文章の美しい素晴らしい作品です。受講生は大いに参考にしてください。
※読みやすいように私・山崎が改行を施しています。

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