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zoom RSS 東京ノーヴイ・レパートリーシアター公演「古事記」を観た

<<   作成日時 : 2014/10/19 17:12   >>

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7月13日、両国のシアターXで
東京ノーヴイ・レパートリーシアターの「古事記」を観る。

演出はむろんレオニード・アニシモフさん。
上演台本は東京ノーヴイ・レパートリーシアターとなっているが、
パンフレットから推察するに、鎌田東二さんの「超訳古事記」をもとに
レオニード・アニシモフさんが構成されたようである。

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内容的には「古事記」の上巻。
高天原に神々が誕生し、スサノオの行状に怒って閉じこもったアマテラスを
岩屋戸からひっぱり出すまでのお話。

アニシモフさんはロシア人なのだが、
自分は日本人の生まれ変わりだと信じている世にも得難い方で(笑)、
「古事記」上演は長年の夢だったようだ。

チラシに、「古事記」は
世界十大神話の中でも現実世界の描き方がもっとも人道的だとあるように、
古事記の神話的世界を人間味溢れる世界として舞台上に描きだしているのが
大きな特徴だと言える。

言いかえると、
「古事記」が限りなくイノセントな世界として描きだされている訳だ。
やっぱりなあとひとり得心する。

アニシモフさんに以前、「穢れ」って何ですか、山崎さん。
どう説明しますか。西洋には「穢れ」に相当する言葉がないのですが。
と盛んに質問されたことがあるからである。

西洋には「穢れ」に相当する言葉がないのかと
そのとき初めて知って私のほうがむしろたじろいでしまったのだが(笑)、
たしかにキリスト教で言うところの「罪」「原罪」と言ってしまうと
すこし違和感がある。

じゃあ何と説明すればいいのか、私の頭ではけっこう難しい。
う〜ん。河原乞食です、役者です、遊女ですと
私としては飛躍して一言ですませたい気持ちもするのだが(笑)、
「穢れ」の言葉を持たないアニシモフさんに生理的に理解していただけるか
となるとそれも難しそうで…。

「古事記」の世界で言うと、
イザナミのいる黄泉の国から戻ったイザナギが禊をする。
つまりは黄泉の国の「穢れ」を払う訳だが、それをどう説明すればいいのか。

「死」を日本人は「穢れ」と読んだのですと言ってもなあ。

あれですよアニシモフさん、ほらあれ。
赤子が母の胎内から生まれ出たとき体中が真っ赤な血に染まっている。
血で汚れている。なので産湯でその血を洗い流すじゃないですか。
あれですよ、あれ。あれが「穢れをみそぐ」ってやつです。

と言えばわかっていただけるのかどうか、やはり自信はない(笑)。
言葉がないということは、そのひとたちにとって
そうしたものはこの世界にはないということを表わしている訳だから。

実際、アニシモフさんのこの「古事記」の世界では
それは描かれない。「穢れ」は…。

それはなぜか私にはある意味了解済みだからいいのだが、
そのことを知らない日本人が観たらどう見えるのか、
私には残念ながらわからないが、

アニシモフさんの「古事記」の世界は
それはそれで見事に構築されているので私は心から敬服したい。

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それにもまして素晴らしいのはやはりアニシモフさんの演出である。

舞台は素。つまり神話(物語)の始まりに相応しい空間。

音楽は生の和楽器だけ。
静寂(無音)が支配する世界に、神々の、そうして人間の鼓動が生まれていく。
それを和楽器の音が表現していく。といった感じである。

光はひたすらに仄か。
つまり陽が上がる前のかすかな光に満ちた世界。
あるいは陽が落ちてまだかすかに光が残る世界。
そして闇。

すでに真っ暗な闇を知らない、
あるいは闇を極度に恐れるようになった日本人にはとてもできない演出(笑)。

光あれ、と神は言った。そうすると光が現れ、世界は闇と光に別れた。
神は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。
聖書の「創世記」で語られる世界の誕生を彷彿とさせずにはいない。

そして物語はすべて上手に座った右手の語部が語り、
左の語部がそれを筆記していく。
まさに「古事記」の誕生する光景が同時に描かれていくのだ。

その語りに合わせて一枚目の写真のように舞台上の俳優たちが
歌舞をしていく。

もっとも写真は稽古の段階で撮られたもので、
本番では俳優たちの顔はみな「神の面相」を施されている。
ほら、大黒様のお面たよ、にっこり笑ったお面。あれあれ(笑)。
お面を被らずに、俳優たちは顔を真っ白に塗ってあの顔をつくる訳だ。

2時間以上それやってる訳だから大変だよ。凄いよ(笑)。

このことについては
田口ランディさんが書いているのでどうぞこちらを読んでください。
私は何も付け加えることがないので。
 ⇒ http://runday.exblog.jp/

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ただ俳優たちの演技に関してはやはりもうひとつという印象が残る。
アニシモフさんからどうした指示が出ているのか知らないのだが、
もっと自分の心や感情を殺したほうがいいのではないか。

人間的な気配が残りすぎるので、
演出上の静寂、無音、沈黙がもうひとつうまく成立しないのである。

ここに壁画を掲載したが、
自分たちの身体をこの壁画のように提出できたら、
「神の面相」ももっと生きたような気がする。

そのためには演じている自分と、
それを背後から見ている自分との「距離」をもっと開く必要があるのだが。

もっとも東京ノーヴイ・レパートリーシアターの俳優たちが
日本の俳優の中にあってひときわ「おとな」に見えることは疑いがないし、
私にはひどく嬉しいことである。

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