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zoom RSS 漱石ゆかりの地、第五高等学校を訪ねて

<<   作成日時 : 2014/09/23 20:26   >>

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9月19日、熊本を訪れる。

朝日新聞が漱石の作品を復刻連載しているが、
そのひとつ「三四郎」の連載がこの秋にはじまる。
その直前に西日本版で漱石熊本紀行を記事にしたいのだとか。
私が招かれたのは九州出身の作家で、
漱石の「こころ」と「道草」を舞台化しているからの模様。

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午後2時ころ、熊本駅に到着。
新幹線で東京からおよそ6時間。
飛行機がだめなので可能な限り避ける。
飛行機の移動より列車の移動のほうが移動感覚があり、
風景もまた楽しめる。つまりは贅沢できる訳だ。

朝日新聞西部報道センターの記者星賀亨弘さんと、
同福岡本部の動画カメラマン寿柳聡さんの出迎えを受け、
そのまま漱石が英語教師として過ごした第五高等学校(熊本大学の前身)へ
タクシーで向かう。

天気は小雨。それも風情あり。
五高でカメラマンの池田良さんと落ち合う。

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第五高等学校。現、熊本大学五高記念館。(他サイトから転載)
正門からほぼ直進した場所にある。
熊大の校内、旧制高の名残りをとどめ、しかも緑がたくさんあり
少しばかりうっとりとしてしまった。

館長の伊藤重剛教授に館内を案内していただいた。
姿形も喋り方も私の大好きな笠智衆みたいで驚き、感動。

私は被写体なので残念ながら五高の写真はほとんどナシ。
あとで池田さんに送ってもらおうかなあ。


漱石がラフカディオ・ハーン(1891年-94年在任)に代わり
英語教師として松山中学から赴任してきたのは1896年(明29)4月。
月給100円。1900年まで丸4年と少し在任。

この年の6月、親族の勧めもあって
貴族院書記官長・中根重一の長女・中根鏡子と結婚。
この熊本の地で新婚生活を送った。

3年目の1897年、
その鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり、
白川井川淵に投身を図るなどしている。

1898年(明31)、
寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、
俳句の指導をした。ちなみに同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に
影響を与えたという。

そして1900年(明33)5月、
文部省に英国留学を命じられ、熊本の地を去っていく。

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教室は30人程度の程よい広さ。
机と椅子が一体になった机で私も懐かしかったが、
机と椅子の間がかなり狭く、当時の日本人学生の体形が偲ばれる。

驚いたのは「漱石の声」がスピーカーから流れてきたこと。
聞くと復元再現した「合成音声」なのだという。
雑音が入っていたら信じてしまったかもしれない。


当時の五高校内が模型で復元されていた。
本校舎、教員宿舎、学生宿舎、実験室、運動場などがひとつの組織として
うまく配置されていて感心した。
国家が学問の場を近代化へのひとつの核としていたことが偲ばれる。
漱石がロンドン留学を希望して受け入れられたのもむべなるかな。


以下は五高出身の主な文学者である。

寺田寅彦、下村湖人、林房雄、江口換、上林暁、梅崎春生、
霜多正次、斯波四郎、中野孝次、厨川千江、谷川雁、木下順二、
久野収、牛原虚彦、森崎東、永畑道子…。

錚々たる顔ぶれである。
中退したが萩原朔太郎も一時籍を置いている。

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後年、漱石が熊本を舞台に書いた作品でよく知られているのは
何と言っても「草枕」(1906)だろう。

私が漱石の作品を読みはじめたのは中学生になってからである。
家の棚になぜか岩波のソフトカバーの「漱石全集」が置いてあったのだ。
どの兄姉が買ったのか知らないのだが、1から順番に読みはじめたのを
よく覚えている。

ただし中学の時は「こころ」で止まった。難しすぎたのだと思うが、
以後、いまに至るまで漱石はずっと読み続けることになる。
感心してもらうと恥ずかしい。
漱石を読むのは私にとってメシを食うに等しいようなものなので。


中学の夏休み、読書感想文の宿題で「坊ちゃん」を書いたら
県立図書館が行っている読書感想文コンクールに入選してしまった。
担任教師が勝手に応募したのだが、
わかっていたらもっと一生懸命書いたのにと後悔したものである。

俳句や詩をなんとなく作りはじめたのも中学生の時だが、
それは明らかに「草枕」の影響だった。
これも感心されると恥ずかしい。
当時の娯楽と言えば本を読むことくらいで、いまの子がマンガを読むように
初期漱石を読み、マンガを描くように句を読んでいただけのことだ。
むろん傑作など何一つありはしない。


これは後に知ったことなのだが、漱石は日本の近代文学が、私小説が
切り捨てたスフィスト(ガリバー旅行記)やデフォー(ロビンソン漂流記)など、
18世紀のイギリス文学を愛読していた。その影響が
「猫」や「坊ちゃん」「草枕」などの初期作品に漢文学とともに現れる訳だが、
私も小学生のころスフィストやデフォーが好きで読んでいたので
漱石の初期作品にけっこうすんなりと入れたのだろう。

ちなみに小5の時だったか、「ロビンソン漂流記」の感想文を書き
先の県立図書館読書コンクールに入選をした。
こっちは感心してもらいたい。一生懸命書いて1等賞だったので(爆)。

ただし先の証拠とこの証拠は家にはもうない。
生家が後に焼けてしまったのだ。

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「三四郎」が連載小説として朝日新聞に書かれたのは
1908年9月から12月にかけてのことである。

続いて書かれた「それから」「門」と合わせて三部作と言われているが、
漱石の初期と後期の狭間に立つ重要な作品であることは間違いない。

物語は、
旧制の第五高等学校を卒業した小川三四郎が東京帝国大学に入学。
広田先生や野々宮らのいる学問世界で交遊する一方で、
美彌子や野々宮の妹ら、女性との世界に惹かれていくというもの。

単純化すれば
広田先生らとの世界は初期作品のいわば「俳諧の世界」であり、
美彌子との愛は「それから」以降の「三角関係の世界」だと言える。

ただしこの作品では広田先生らとの世界同様、
美彌子との関係は徘徊するだけで一向に前へと動きださない。
「それから」以降のように「姦通」へと動きはじめることはない。

冒頭、三四郎は汽車の座席で知り合った人妻と名古屋で降り、
宿と床を一緒にし、しかし何事も起こらず、翌朝駅のホームで別れる。
そのとき人妻に「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と笑われ
大いなるショックを受けるのだが(笑)、あれである。

女性にたいして動くことができない。
いや女性にたいしてだけでなく他人にたいして動くことができない。
それが三四郎=漱石の原資質なのだと私は考える。

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そのことはすでに漱石も「草枕」の冒頭で告白している。

「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」

「三四郎」に限らず漱石文学はこの一文に尽きると言っても過言ではない。

他人にたいして動きはじめると碌なことにならない。地獄に落とされる。
なのでいつも距離を置いて遠くから眺める。
それがたぶん漱石が俳諧の世界に住んだ理由だ。

しかし否応なく社会に入っていかなければならなくなる。
そこは地獄なのだが、しかし地獄だからこそ書きたくなる。
はやい話がものを書くことで自分を癒さざるをえなくなる訳だ。
こうして漱石文学が生まれた。と私は考えている。


「三四郎」以降、漱石はついに動きはじめる。

それから、それからどうすると自分に問い詰め、「それから」で、
もと自分が愛した女性で義侠心から友人平岡に譲ったとはいえ、
人妻の美千代と姦通し、奪い返し、結婚するのである。

そして「門」に至り、
「親を棄てた。親類を棄てた。友達を捨てた。大きく云へば
一般の社会を捨てた。もしくは夫等から捨てられた」宗助・御米夫婦は、
山の手の奥の陰鬱な崖下の借家にひっそりと住まい暮らす。

吉本隆明風に言えば、かれらは
共同幻想と衝突せずにはいない対なる幻想(愛)を選びとったのだ。

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写真は漱石が国文学(漢文学)を求めてよく通ったという「河島書店」だ。
市街中央の上通町にある。

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この社会から抹殺されようと愛を選びとると漱石はなぜ決意したのか。
江藤淳が言ったように
おそらく漱石が母を知らず父を知らなかったからであろう。


名主の子として生まれた漱石は
生後すぐに四谷の古道具屋へ里子に出される。

品物の隣に並び置かれた弟を見て姉が不憫に思い実家へ連れ戻すのだが、
すぐにまた夏目家で書生のように仕えていた塩原昌之助へ養子に出される。
10歳のころ塩原夫婦が離婚したのを機に実家へ戻されるが、
塩原家から復籍したのは20歳過ぎだった。

このあたりの事情は自伝的作品「道草」で描かれているが、
養子先の塩原夫妻を、そして実の両親を
漱石は自分の両親としてついに獲得することができなかったのだ。

ひとは母子関係を獲得し、
その関係を応用しながら他人との関係を築いていくものだとすれば、
漱石は明らかにそれに失敗したと言わざるを得ない。

結果、他人にどう接していいかうまく理解できず、
「俳諧の世界」のように他人に距離を置き、遠くから、あるいは外側から
眺むるしかなくなったのだ。

母子関係が完璧であることなどありえないので
人間は多かれ少なかれ他人と齟齬をきたすのは当然なのだが、
漱石の場合その齟齬がひときわ大きかったのである。

三四郎が汽車の中で知り合った人妻に
「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と評されて動揺したのは
他人にたいしてどう動けばよいのか皆目わからない自分を
見抜かれたからにほかならない。

愛し、欲する美彌子にたいして動きだせなかったのも同様の理由だ。

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しかしこれでは生きていけない。
他人にたいして働きかけないと生きていけない。
そう思い漱石は動きはじめた。他人に働きかけはじめた。

その相手に女性が選ばれたのはおそらく
女性と愛し合うことで母子関係の失敗をもう一度はじめから
やり直したかったからだと思う。意識していたのかどうかはともかく。

しかし性の問題は無意識の問題だ。
自然なほど、無意識なほどいいのだが、漱石はそこでは自然に、無意識に
振る舞うことができない。無意識が大きな傷を負っているからだが、
そのため以降、漱石には更なる大きな格闘が待っていた…。

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そうした漱石文学が私の目の前に再び大きく大きく現れてきたのは
じつは1970年代後半からである。そして現在に至っている。

理由は明快だ。

1970年代後半から、
演劇の現場で接するとりわけ若い世代の「心の病」に
私が向き合わなければいけなくなったからである。


漱石は私にとってまさに「現在」なのだ…。


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同日、夜。

記者の星賀亨弘さん、寿柳聡さんとの三人で
通町アーケード街からすこし横に入ったお店で食事をする。
サカナがあまりにも美味しくて参った。

星賀さんの話を聞いて驚く。
明治大学で演劇をやっていらしたというのである。
私の師の唐十郎の後輩にあたる訳だ。

お二人には、
九州の話やいまの社会に対する認識、考えなども聞かされた。
お二人とも40歳前半だが、正直驚き感動した。
こんなに明晰でまっすぐな姿勢を持った、
私より若い世代の人間に出会ったことなどほんとうに久しくなかったからだ。

勇気と希望をもらいお二人に改めて感謝したい。


熊本に行ってほんとによかった。
漱石にも感謝しなちゃ…。


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