山崎哲_ひと・こころ・からだ

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zoom RSS 「二十四時間の情事」にまとわりつく私の「ヒロシマ」体験

<<   作成日時 : 2014/08/31 23:27   >>

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この映画には
私の原体験とでも言うべき「ヒロシマ」の記憶がまとわりついている


 

「戦争責任」論とは何か。

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映画の1シーン

戦前、文学者たちは「大東亜戦争」を賛美し、国民を戦争へと煽った。
荒地派の若き詩人たちもそのため何の疑いもなくその戦争を信じた訳だが、
その意味では文学者たちは間違いなく戦争における「加害者」だった。
にもかかわらず戦後、自分を加害者だと認識することもなく、
時には軍事権力に脅され仕方なく書いた、自分たちも「被害者」だなどと言い、
文壇へ戻った。内省しなかった。自己を批判し、責任を取ろうとしなかった。
吉本はそのことを痛烈に批判したのである。

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映画の1シーン

私は被爆体験者である原民喜や峠三吉らを読み、
名もない被爆者たちの手記を読み、「ヒロシマ・ノート」などを読んだ。
そして読むたびに長崎の斎藤さんや広島の渡辺さんご夫婦、あるいは
私の父を思い出していた訳だが、

自らの体験を語るものの中に、斎藤さんや渡辺さんご夫婦らの心をそこに
折り重ねて想像しようとしていたからではない。
被爆者の中には体験を語るひとたちがいる一方で、けして語ろうとしない
ひとたちがいる。斎藤さんや渡辺さんご夫婦のように。
おそらく語るひとたちよりもはるかに多く。

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映画の1シーン

そのことは広島に住んでみればわかる。
私が在学中、県内出身者と県外出身者の比率はほぼ同じだった。
市内の実家から通う者も多数いた。ということは被爆2世であったり、
あるいは近親者に被爆者がいたりする可能性は高かったはずなのだが、
かれらが被爆について、あるいは「ヒロシマ」について語ることは皆無だった。
後に語るケースを例外に。

街に住むひとたちも同じで、どんなに親しくなっても「ヒロシマ」について、
あるいは戦争体験について語るひとなどいなかった。
広島のひとたちは渡辺さんご夫婦のように、ただごく普通に暮らしていた。
被爆体験について語るひとはごく一部だったし、それも取材されたので語る
という趣だった。

8月上旬、広島はたしかに「ヒロシマ」の声で溢れたが、
しかし「ヒロシマ」について語ったり声をあげたりするのは大半が
県外からやってきたひとたちだった。

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原爆ドーム (現在)

その意味では広島は、私が想像していた広島とは異なっていた。
広島は、14年間、ヌベール体験を封印した女(エマニュエル・リヴァ)同様、
被曝については語らぬ街、寡黙する街、沈黙する街だった。
それが私の広島の印象だった。

そのため私は語られた被爆体験を読むたびに、
語らない被爆体験者を、斎藤さんや渡辺さんご夫婦を思い出した。
思い出し、「語られない被爆体験」の心に思いを馳せたのである。

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広島のキノコ雲 米軍機撮影

被爆体験を、「ヒロシマ」を語ろうとしないひとたちがいる。
けして声にしないひとたちが、沈黙するひとたちがいる。何故か。
被爆者だと名乗ると差別されるからか。それもあるかもしれない。
封印することで忘れまいとしているからか。それもあるかもしれない。
語ることは不可能だと思っているからか。それも…。
絶望や虚無、無力感に深く囲われているのか。それも…。

と同様に、
被爆した、広島に原爆が投下された、私たちは被爆した。
その意味ではたしかに自分たちは被害者であるが、しかしそれ以前に、
自分たちは、日本は「加害者」だったのだ。そうした複雑な思いがあって、
そう簡単には声を出すことができないのではないか。

荒地派のモダニズム詩批判や、吉本の
「芸術的抵抗と挫折」と「抒情の論理」を読み、私はそう考えたのである。
そう考えると戦争に行ったという父の寡黙もなんとなくわかる、と。

※斎藤さんや渡辺さんご夫婦も語らぬ被爆者だったが、
被爆者であることを他人に隠さない点においてむしろ例外的な存在だった
と思う。そのため一層私は斎藤さんや渡辺さんご夫婦に大江健三郎が
「ヒロシマ・ノート」で言う人間としての「尊厳」を感じていた。

※ヌベール女の体験と広島のひとたちの体験は重ならない。
ヌベール女は被害者ではあるが加害者ではないからだ。
広島の男(岡田英次)も被害体験があるようにはとても見えないし、
加害者意識を持ち合わせている訳でもないので私から観れば「ヒロシマ」の
男にはならない。この映画に違和感を抱くのはそれが大きな理由である。

※この時はまだ父の戦争体験を聞かされていなかったのだが、
こうしたことを考えていたので「一枚の写真」を見せられた時、思ったより
冷静でいられたのだろう。


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1954年3月、焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」は、
アメリカ軍がビキニで行った水爆実験で全船員23名が死の灰を浴びる。
無線長だった久保山愛吉さんは半年後に亡くなった。


反核運動が烈しくなったのは私の記憶では
1954年の第五福竜丸被爆事件あたりからだったような気がするが、
広島、長崎の被爆を背景にした反核運動や被曝者文学、
体験手記などにたいする私の思いは次第に複雑になった。

一言で言えば、被爆の悲惨さが訴えられれば訴えられるほど、
私たち日本人は加害者でもあったという事実が忘れ去られていくような
気持ちに襲われはじめたのである。

被害者意識が増幅し、その増幅の中で加害者意識が消えていく。
としたら恐ろしいことだ。
戦前、翼賛文学を書いた文学者にたいして荒地派や吉本の批判が苛烈を
極めたのもその恐ろしさを知っていたからに違いない…。

※被爆者たち自身の声を恐ろしいと言っているのではない。
その声を聞き、加害者意識を忘れて被害者意識が増幅することがあれば、
それが恐ろしいと言っているのである。


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福島の原発事故

ヒロシマとフクシマは被曝の恐ろしさという点では同じだが、
フクシマの被爆者たちは加害者ではないという点において決定的に違う。
フクシマはむしろ第五福竜丸事件に近い。 


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坂口安吾 島尾敏雄と妻ミホ 武田泰淳 

荒地派の詩集を読みはじめたころから私の読書は次第に戦後書かれた作品に
移りはじめた。

坂口安吾を読み、武田泰淳を読み、椎名麟三を読み、島尾敏雄を読み、
堀田善衛、石川淳、梅崎春生、野間宏を読んだ。
福永武彦、織田作之助、田中英光を読み、埴谷雄高、花田清輝、奥野健男、
本田秋伍、江藤淳、木下順二らを読んだ。
私は私が生まれた「戦後」をうろついた。

たとえば安吾はこう書いていた。

「私は日本映画社というところの嘱託をしていたが、そこの人たちは、
軍人よりも好戦的で、八紘一宇的だとしか思われなかった。ところが、
敗戦と同時に、サッと共産党的に塗り変ったハシリの一つがこの会社だから、
笑わせるのである。
今日出海を殴った新聞記者も、案外、今ごろは共産党かも知れないが、
それはそれでいいだろうと私は思う。我々庶民が時流に動くのは自然で、
いつまでも八紘一宇の方がどうかしている。
八紘一宇というバカげた神話にくらべれば、マルクス・レーニン主義がズッと
理にかなっているのは当然で、こういう素朴な転向の素地も軍部が
つくっておいたようなものだ。シベリヤで、八紘一宇のバカ話から、
マルクス・レーニン主義へすり替った彼らは、むしろ素直だと云っていゝだろう」

(「安吾巷談」1950)

※戦後も毎日ご真影を拝していた私の父は案外、「転向」しない
例外的な存在だったということになるかもしれない。


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宮崎市・平和の塔 (現在)

私の故郷にある平和台公園の中に「平和の塔」という塔がある。
「八紘一宇」の文字が刻まれており、戦前は
「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」あるいは「八紘一宇の塔」と呼んだ。
在学した高校(大宮高校)の近くにあり、放課後この公園で遊ぶこともあった。


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特攻隊の隊長として奄美群島加計呂麻島に赴任、
1945年8月13日に出撃命令を受けたものの
発進命令を受けないまま待機しているうちに終戦を迎えた島尾敏雄は、
こう書いていた。

「ぼくの気持ちの中では、戦争はその後もずっと起こっているんです。
自分にも周囲にも」

精神を病んだ妻と子を抱えた生活を綴った「死の棘」は、
その意味では島尾にとってはまだ終わらない「戦争」だったことが知れる。

後年、立教大学助教授教え子殺害事件(1973)を下敷きに私は
「うお傳説」を書いた。助教授一家は石廊崎で心中したのだが、その過程を
いささか強引に「死の棘」と折り重ねた。「死の棘」は私がもっとも
偏愛した作品のひとつだったのでそうやって描いてみたかったのだ。
その作品を深夜叢書社から処女出版すると、当時、鹿児島にいらした
島尾さんから丁寧なお礼の手紙が届き、驚き、感激した。
深夜叢書社の斎藤慎爾さんが私の本を贈られたのか。
ちなみに以降の私の作品のほとんどは「死の棘」の流れの中で
描いたものである。


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左上から小島信夫、吉行淳之介、野坂昭如、谷川雁、
谷川俊太郎、寺山修司、竹中労


第三の新人と呼ばれた小島信夫、吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三、
阿川弘之、遠藤周作、野坂昭如らを読み、内向の世代の古井由吉らを読んだ。三浦朱門や曽野綾子まで読んだ。
谷川雁を読み、長谷川四郎、飯島耕一、吉岡実、吉増剛造、入沢康夫、
天沢退二郎、吉野弘、茨木のり子、大岡信、長田弘を読み、
谷川俊太郎、寺山修司らを読んだ。竹中労らも…。

この作家たちの中にも私は「戦後」を読んだ。

※上の写真は後年私がお会いし、胸深く刻まれた方々である。
お世話にもなった。記して心から感謝をしたい。


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椎名麟三 (1911-1973)

卒論は椎名麟三の初期作品について書いた。ただし私は卒業していない。
提出し卒業できる見込みはあったが、卒業しないと返却してもらったのだ。
3年次から4年次にかけて学生運動が烈しくなり留年を決めたからだった。

椎名を選んだのは旧制姫路中学中退と他の作家たちに比べて学歴が低く、
苦労した作家だったからである。戦後派の中でも極度に生命が危機と絶望に
晒された人間の姿を描き、被爆者を連想せずにはいられなかったからである。
私が愛読していたドストエフスキーに影響を受けて書き始めたこと、
のちにキリスト教へ入信したことも深い関心を寄せた理由だった。

椎名は兵庫県生まれ。両親ともに愛人がいたが、両親はのちにともに自殺。
生活が困窮し14歳で家出。旧制姫路中学を中退したあと果物屋での
20時間労働、飲食店の出前持ち、燐寸工場の鉄具ひろい、コック見習いなど
職を転々とする。
宇治川電気(現・山陽電鉄)の車掌時代にマルクスを読み日本共産党に入党、
特高に検挙され獄中生活を送る。そこでニーチェを読み、転向。
キルケゴール、ドストエフスキーらを読み文学活動を始め、のちに
日本基督教団の赤岩栄牧師から洗礼を受けた。

赤岩栄は牧師ながら共産党入党宣言をし、教団内でおおいに物議を醸した
牧師だった。椎名はかれに親近感を感じ、かれを生涯敬愛した。


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映画の1シーン

演劇サークルに席を置いていた私は、2年次後半から演出を始めた。
先輩諸氏が就職、学業専念のため席を抜けたからである。
椎名麟三の「第三の証言」を、そしてイギリス労働者階級の姿を描いた
アーノルド・ウェスカーの「大麦入りのチキンスープ」「根っこ」を演出したあと、
仲間たちと一緒に次第にサークルの組織を替え、活動形態を変えていった。

「サークル」を解体し、市内の各大学サークル部員たちと一緒により自由に
活動できる集団を目指したのである。女子会員しかいない広島女子大学と
女学院大学のひとたちが賛同し、一緒に活動をはじめた。
上演も「教室的」ないわゆる劇場ではなく、学内の教室だとか、ビルの会場、
喫茶店などで行いはじめた。当時、同じような活動をはじめていた岡山大学の
連中とも頻繁に行き来しはじめた。

1971年、私は最初の劇団「つんぼさじき」を旗揚げしたが、
「つんぼさじき」は岡山大学の友人たちが名乗っていた名前である。
かれらは執行部の合図で敵対する党派に突っ込んだ。
が、振り返ると突っ込んだのは自分たちだけで後ろには誰もいなかった。
「つんぼさじき」に置かれたような気持ちに襲われ、「つんぼさじき」を名乗ることにしたのだという(笑)。
その友人たちを誘い、名前はそのまま残し、東京で一緒に始めたのだった。

こうした動きの中で私たちは佐藤信らの「自由劇場」広島公演を企画した。
気づくと演劇運動を標榜するかれらに文化座の「労演」公演並みの
買い取り金額を要求されていた。


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新宿西口集会 西口地下で高石ともやの歌を何度か聞いた
機動隊が現れ、あちこちで小競り合いが始まったこともあった


年に1、2回ほど上京を繰り返していた私は「紅テント(状況劇場)」や
鈴木忠志らの「早稲田小劇場」こそ機会がなくて観ていなかったが、
寺山修司の「天井桟敷」や、佐藤信らの「自由劇場」、竹内敏晴の「変身」、
「演劇集団日本」、すまけいの舞台など、当時アングラと言われていた舞台を
すでに観ていたので影響を受けたのである。
一方で世界的に「ステューデント・パワー」が吹き始めていた時代だったので、
自分たちから積極的にその波を被ろうとしていたこともある。

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映画の1シーン

5年次の夏、私ははじめて戯曲を書き、上演した。
タイトルは「赤いマリア」。広島の被爆2世を主人公にした、60分ほどの短い
モノローグふうの舞台だった。

劇は高校時代からやっていたが、夏に状況劇場の舞台を観るまで台本を
書いてみたいと思ったことは一度もなかった。
テネシー・ウィリアムズや三好十郎の戯曲が好きで愛読していたが、
それでも舞台構成が自然主義的だし、セリフも散文なので私には合わない、
無理だ、窮屈だと感じていたのである。

が、唐十郎の舞台を観てはじめて私は、何をどんなふうに書いてもいいのだ、
好きに、自由に書いていいのだと戯曲の感じさせる不自由さから解放された。
だったら書いてみたい、書きたいとはじめて思ったのである。
すでに天井桟敷などの舞台を観ていた訳だが、そこまで私を自由にして
くれた舞台は残念ながらなかった。

ちなみにはじめて観た状況劇場の舞台は、私がもの心ついた時から見ていた
「ドサ廻り」の舞台を彷彿させた。宝塚の男役を彷彿させる李礼仙(現・麗仙)を
はじめ、大久保鷹、不破万作、麿赤児らの異形な演技も素晴らしく、その夜、
私は異常に興奮し眠れなかった(笑)。
まさに劇的体験だったというほかない。


このはじめて書いた本の上演で私はいまなお忘れがたい
「ヒロシマ」体験をする。

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「なぜヒロシマをやるのだ」と二人の観客に詰め寄られたのだ。
「おれは被爆2世だ」と言い。舞台の内容のことではない。
広島で「ヒロシマ」の舞台をやること自体が許せない。
広島の人間でない者が、「よそ者」が、という訳である。

二人が私の知らない客だったら私は答えたかもしれない。
だが二人は大学の友人で、これまで心を開いて付き合ってきた
思いがあったので言葉を失った。
二人が被爆2世だと語ったことは一度もなかったし、
それまでそんな素振りを見せたことも一度もなかった。
周囲に被爆2世がいるとは想定していたが、
こうしたかたちで現れるとはと、私はただ茫然とするしかなかった。

広島にずっと留まりたい気持ちも一方にあったのだが、
広島にいても私には何もできないと思い、この時去ることに決めた。

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唐十郎
私の岸田賞受賞記念パーティにて (1982) スズナリ


このあともう1本台本を書き、上演。もちろん「ヒロシマ」ものではない。
その台本を唐さんに読んでほしいと願い無礼を顧みず送った。
すぐに唐さんから丁寧な長い感想をいただいた。

1970年3月下旬、私は卒業しないまま夜汽車で広島を発ち上京した。
そして31日正午、当時、阿佐ヶ谷にあった状況劇場の門を叩く。
きしくも赤軍派がよど号をハイジャックした日だった…。

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広島の街を舞台にしたこの「二十四時間の情事」を観ると、
こうした私の「ヒロシマ」体験が蘇り、複雑な気持ちに襲われるのだ。
その後もここに書いてきた「ヒロシマ」体験のもとに生きているのだから、
その複雑さは私には途方もないのである。
この映画にたいする愛着も。

もう一度問う。

デュラスもレネも「ヌベール体験」(物語)を拵えておきながら、
なぜヌベールの街のひとたちの、ひいては祖国フランスの「戦争責任」を
問わないのか。私にはどうしてもそのことが解せない。

もしかして「ヒロシマ」を描くと広島の、日本の戦争責任を問わなければ
いけなくなると遠慮し、意図的に女の愛の回復だけに的を絞ったのか。
だとすればこの映画はまさに「ヒロシマ」そのものだと言ってもよい。




補) 再びの「荒地」(戦後)時代

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サリン事件 (1995)

日本人が被害者意識にまみれていることを私は後年、オウム事件で
思い知らされることになった。

当時、各局に呼ばれて毎日のように報道番組に出演していた。
私は一貫してほかのコメンテーターたちに冷静になるよう呼びかけた。

法治国家なのだから公判の結果が出るまで信者たちを犯罪者呼ばわり
すべきではない。
ジャーナリストは捜査が適正に行われているかどうかを見守るべきである。
弁護士は被害者を弁護すべき立場である。そんなあなたたちが公判も待たず
かれらは犯罪者だと声高に叫び、視聴者を煽るべきではない、と。

テレビ局は事件に関与していないオウム信者たちにも声をかけた。
と、かれらは一様に私山崎が一緒に出演するなら出演してもよい。
ほかのコメンテーターだと怖くて出演できない、話せないと言ったらしく、
私はかれらと同席することも多かった。
かれらの声も当然聞くべきだという思いがあったからだ。

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阪神淡路大震災 (1995)

私はただごく当たり前のことを言い、当たり前のことをしていただけだが、
私が出演すると「山崎を下ろせ」という視聴者の声でデスクの電話が
パンクした。レギュラー番組のブロデューサーは事情を私に告げ、しばらく
休んでくれと頭を下げた。

当時、私は東京新聞に毎週コラムを書いていたが、編集部に
山崎を下ろさないと新聞を取らないという投書が押し寄せ、結果、私は
下ろされた。編集部が率直に話してくれたので、事情を察し、私のほうから
降りることにしたと言ってもよいのだが。

私の自宅へ匿名の電話がかかってくるのも度々だった。
ほとんどが殺してやる、家に火をつけてやるといった類のものである。
手紙もたくさん送られてきた。電話と同じで脅迫の手紙だったが、
1割程度に応援の手紙もあった。その方たちには改めて感謝したい。

ほとんど孤立無援の中で相変わらずテレビに出ていたのは、
鮎川信夫が「多数を信じるな」と戦中戦後の体験から書いていた言葉が
私の胸にあったからだ。そして吉本さんにだけは
わかっていただけるはずだと固く信じていたからである。
実際そうだったのだが。

ほかにも多々尋常とは思えない被害にあった。
私はただそんな日本人に呆れ、笑っていたが。

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東日本大震災 (2011)

それにしてもと私は恐怖した。

自分が直接サリン被害にあったひとならわかるが、
直接被害にあった訳でもないひとたちのこの度を超した被害者感情、
被害者意識はいったい何なのか。どこから来るのか、と。

私に言わせれば、被害に遭った訳でもないのに、
けして非難されない被害者の立場に立ち、他人を非難、批判することほど
安易なことはない。卑怯なことはない。
なのによってたかって日本人がその立場に立つのはなぜなのだろう、と。

理由はわからないが
私は一億総玉砕のもとに戦争末期へ突き進んでいった戦中のことを、
そして敗戦になるとアメリカの提出した民主主義理念にすがりついたという
戦後の日本人の風景を思い浮かべたものだ。

オウム以降の日本に私は、
その「戦中・戦後」の復活を強烈に感じている。

再びの「荒地」(戦後)。
長い長い「荒地」(戦後)の時代…。



※ 二十四時間の情事_1
※ 二十四時間の情事_2
※ 二十四時間の情事_3

※ 二十四時間の情事_4

※ 二十四時間の情事_5


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■91分 フランス/日本 ドラマ/ロマンス
監督: アラン・レネ
製作: サミー・アルフォン 永田雅一
原作: マルグリット・デュラス
脚本: マルグリット・デュラス
撮影: サッシャ・ヴィエルニ 高橋通夫
音楽: ジョヴァンニ・フスコ ジョルジュ・ドルリュー
出演
エマニュエル・リヴァ
岡田英次
ベルナール・フレッソン
アナトール・ドーマン

独軍の占領下にあったフランスの田舎で、敵兵と密通して断罪された過去を持つ女優が、ロケのために広島を訪れ、日本人の建築家と一日限りの情事に耽ける。そして知る、広島の悲劇。時あたかも8月6日。原水禁運動を背景に、二人の孤独な会話が続く……。
焦土から奇跡の復興を遂げたその町は、死の影を決して忘れることはない。夜を縫うS・ヴィエルニのカメラの怜悧なこと。意識の流れ的手法で、大戦の中での個人の苦渋を余すことなく語ったM・デュラスの脚本を、完璧に映像化したレネの最高傑作だろう。

 
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