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zoom RSS 「二十四時間の情事」にまとわりつく私の「ヒロシマ」体験

<<   作成日時 : 2014/08/29 04:34   >>

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この映画には
私の原体験とでも言うべき「ヒロシマ」の記憶がまとわりついている
 


高2から劇をやっていた私は1年次の秋、サークル演劇研究会に入会。
最初の舞台はきしくも、呉軍港近くの島に住む人々の被爆体験を描いた
堀田清美・作「島」だった。

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映画の1シーン「資料館に展示された写真」

主人公・栗原学は若いとき広島で被爆し、火傷の重傷を負う。
母の介護で一命をとりとめ、のちに故郷倉橋島の中学教師になる。

島のひとたちは彼を愛するが、
被曝した者は白血病が発症するという噂が流れてくるにつれ、
島の中に次第に、同情、不安、差別などの空気が生まれる。
そのため学は恋人とも別れざるをえなくなる。

喪失感に囚われながらも学は最後、
海に落ちていく夕日を眺めながら「この島で生きる」と決意する。
背中に負った火傷の痛みがそう決意させる…、
という物語である。

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呉 (現在) 第二次世界大戦中は帝国海軍の拠点だった

全員で呉へ行き、呉から舞台になっている倉橋島へ「音戸渡船」で渡った。

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音戸大橋 (現在) 左側が倉橋島

島の倉橋町と音戸町を歩き、「ピカドン」のキノコ雲を
遠く島から眺めたというおじさんの話を聞いた記憶がある。

私も島の人間という小さな役で舞台に立ったが、
学を演じた先輩栗田さんの姿はいまも瞼に焼きついている。
力みのない、静かなその佇まいが長崎の斎藤さんを彷彿させたからである。
細身のからだとすこし面長の顔立ちも似ていた。

先輩クロさん(黒柳)の演出も素晴らしく、
私は敬愛し、のちにクロさんの住む皆実町へ引っ越すことになる。

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江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校 (現在)

私は戦前、海軍兵学校のあった江田島へも渡り、歩いた。
夏には何度か泳ぎにも行った。瀬戸内海の島々はどこも本当に美しい。

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厳島の町並み (現在)

平清盛の所縁の地でもある厳島を歩き、

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尾道 (現在)

足を伸ばして尾道も歩いた。

門司で生まれ、のちに尾道に住み、尾道を故郷とよんだ林芙美子の家は、
坂の小路の一角に小さくひっそりと佇んでいた。
名作「浮雲」は、戦時中、翼賛文学まがいのものを書いた自分を処罰する
ために書いたのか、どうか。

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街や島だけではない。私は本の中をも歩き、うろついた。
文学は台所に立ちながら啄木や牧水らを小さく口にしてい母の影響だったが、
父や母たちが生きてきた時代を、日本を知りたかったからである。

漱石をはじめ、鴎外、藤村、独歩、一葉、透谷、露伴、花袋、鏡花を読んだ。
朔太郎を読み、啄木を読み、子規、鉄幹、晶子、牧水、白秋、犀星、虚子、
中也、道造、光太郎、金子光晴を読んだ。
賢治、芥川、多喜二、直哉、実篤、基次郎、善蔵、白鳥、敦らを読み、
横光、川端、三島、谷崎、鱒二、荷風、百合子、かの子、彌生子、葦平を読み、
小林秀雄を読み、太宰治を読み、堀辰雄を読み、広津和郎を読み、
三好十郎を読み、壷井栄らを読んだ。
手に入るものは片端から見境なく読んだ。乱読した。うろついた。

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一方で、被曝体験者である原民喜の「夏の花」や峠三吉の「原爆詩集」、
栗原貞子らの詩集などを読む。井伏鱒二の「黒い雨」も。

「にんげんをかえせ」

峠三吉

ちちをかえせ 
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
 
わたしをかえせ 
わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの 
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

目が霞むことがあった。息苦しくなることも。
そんな時、私は夜の広島へ出て歩いた。御幸橋まで行き、
ぼんやりと上流・流川の灯を眺め、下流・宇品港のほうを眺めた。

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当然、大江健三郎の
「ヒロシマ・ノート」(岩波新書1965/6/21初版)も読んだ。

1963年から64年にかけて被爆者や治療に当たる医師たちを取材し、
月刊「世界」に連載したものを一冊にまとめたものである。
「僕」が被爆者たちの様々な個人的体験を拾い集め、自殺した人たちにまで
その言葉は及んでいた。

私は惹きつけられ何度か繰り返し読んだが、読めば読むほど一方で
何も語らなかった長崎の斎藤さんや渡辺さんご夫婦のことが思い浮かんだ。
そして父のことも…。

当時、大江健三郎は30歳前後。小さな違和を感じながらも、
私ははじめて近しいひとに出会えたような驚きと喜びを覚え、
手に入る大江作品を片端から読んでいった。
3年次だったか4年次だったか、夏の日、大江の出身地の愛媛を訪れ、
歩いたこともあった。

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大江健三郎 (1935年-) 愛媛県内子町出身

私が多大な影響を受け、敬愛した吉本隆明は大江健三郎に厳しかったが、
それでも私の中で大江にたいする親近感が消えたことは一度もない。
私が勝手に大江の中に「うろつく」ものを感じていたからだろう。

私が街をうろつき、本の中を、先達のひとたちの間をうろついたのは、
私が「戦無派」だったからだ。自分の中に何か確かなものを作りださないと、
この生はなかなか生きがたいと感じていたからである。

私たちの世代はみな多かれ少なかれそう感じていたのではないか。
先行くひとたちを前にした空白感や焦り、不安が、
60年代後半から70年代前半にかけての大きな動きの原動力のひとつだった
と私は思っている。

余談だが、
後年、私がNHKで「週刊ブックレビュー」の司会をしていた時のこと。
打合せ室へ入ろうと局の廊下を歩いていると、背後から「渡辺くん」と
声をかけられ、驚いた。私の本名を知っているひとなど誰もいないはずだから
なのだが、振り返るとその日のゲストの大江健三郎さんだったので
二度びっくりである。

初対面だし、大江さんが私の本名をご存じなはずなどありえないからだ。
大江さんは驚いた私の顔を楽しむかのように仰った。
「僕は君が学生の頃から知っているんだよ」と。

声が出ない。冗談だと思った。広島では芝居をやっていたくらいで
特別目立つような学生ではなかったはずだからである。
中国新聞に詩を投稿して何度か掲載されたが、片隅のことにすぎない。

更に「僕の妻は君のファンなんだよ」と続き、四度驚く。
たしかに当時、コメンテーターとしてテレビにはよく出ていたが、
「芝居の」と続けられた瞬間、私はもう何がなんだかさっぱり訳がわからなく
なってしまった(笑)。

そのまま打合せに入り、またその後お会いしたことがないので
いまだに訳のわからないままなのだが、あれも私の「ヒロシマ」体験がくれた
ひとつの縁だったのだろう。


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2年次の夏休みだったか、試験終わりの秋休みだったか、
本漁りに上京した時、早稲田通りの古書街で念願の詩誌を見つけた。
鮎川信夫、黒田三郎、田村隆一、北村太郎、吉本隆明ら
荒地派の同人たちが1951年から58年にかけて出版した「荒地詩集」全6集と、
アンソロジー「荒地詩集」全8冊のうちの2冊である。
全8冊。当時の金で2万円ほどで堪えたが背に腹はかえられない。
購入してそのまま広島へ帰り、読み通した。

※「荒地派」の情報は愛読した月刊「現代詩手帖」(思潮社)ですこし得ていた。
後年、その思潮社から戯曲集6巻を出版してもらうことになるとは、当時、
夢にも思わなかった。


解けた。
感じていた違和感が。
原民喜の「夏の花」や峠三吉、栗原貞子らの作品、
あるいは「ヒロシマ・ノート」に感じていた私の小さな違和感が。

「戦争責任」論が欠けている…。

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鮎川信夫 詩人 (1920〜1986)

戦後、荒地派の詩人たちは戦前のモダニズム詩を批判した。
しかしその批判は、ほかの詩人に向けられたものというより、
自分たちに向けられた批判だった。自己批判だった。
戦前・戦中、自分たちもモダニズム詩を書いていたからである。

若いかれらは招集され戦地へ送られた。銃を握らされた。
そのときかれらは「死」の不安と恐怖の中で問うた。
自分は果たしてこの銃を「他人」に向けることができるだろうか。
引金を引くことができるだろうか、と。
そう問うたのは一言でいえばかれらが詩の仲間であり、
愛する友人だった「M」(森川義信)の戦死報を受け取っていたからである。

戦後、幸運にもかれらは再び日本へ帰ることができた。
しかしその日本で目の当たりにしたのは、
信じていた信念や価値が崩壊し、自己を失ってしまった日本人の多くが、
GHQ(アメリカ)が差し出した「民主主義」の理念に縋りつこうとする光景だった。

鮎川らはそこに戦前の自分たちの姿を見た。
当時の日本人たちの信念や価値を無媒介に、非主体的に信じ込んでいた
自分たちの姿を。

※吉本隆明も、戦前、私は「皇国少年」だったと告白している。

一方では、戦中、翼賛詩を書いた、あるいは書かされた詩人たちがまた
戦前同様のモダニズム詩を書き始めていた。

鮎川らはそうした戦後風景を「荒地」と読んだ。自分たちの戦争体験を含め。
第一次世界大戦後の荒廃した世界と救済への予兆を描きだした、
T・S・エリオットの長編詩「荒地」に習い。

鮎川らは傷ついた自分の精神と心を時間をかけて癒したのち、
戦前のモダニズム詩を、自分たちの書いていたモダニズム詩を批判し、
自分たちの戦争体験をもとに、生きるべき新たな道を求め、
新たな詩を書き始めたのだった。「ことば」だけを信じて。
自分たちの「ことば」だけを頼りに。

言いかえると、
自分たちが戦前書いた詩にたいして「責任」を取り始めたのだ。

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映画の1シーン

「死んだ男」

鮎川信夫

たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
--これがすべての始まりである。
遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場のいすのうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
--死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。

Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代--
活字の置き換えや神様ごっこ--
「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

(前半 「M」は友人森川義信のこと)

この抒情的な詩の裏面に、「M」を殺したのは自分かもしれないという
鮎川の痛恨の思いと悲しみを感じるのははたして私だけか。

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映画の1シーン

「妻の歌える」

黒田三郎

今こそ私は申します
 貧しく
 無力な
 妻や母や子や妹のために

 すべての貧しく無力なものから
   小さな幸福と
   小さな平和と
   小さな希望を
     取り上げて

 それで
 あなた方は一體何を守るというのですか
 夫や子や父や兄を駆り集めて
 それで
 あなた方は一體何を守るというのですか   (抜粋)

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黒田三郎 広島県呉市出身 (1919-1980)

黒田がこうした平易なことばで詩を書くこと自体が、
「活字の置き換えや神様ごっこ」(鮎川)に明け暮れるモダニズムへの
批判だった。
黒田は書いている。

 「詩人である以前に、ひとりの人間であり、ひとりの市民であることを、
 詩人だからと言ってないがしろにできるわけがない。
 詩人という名で避けられることは、この世に何ひとつ無い、というのが
 戦後の僕の痛烈な反省であった。
 ひとりの人間であり、ひとりの市民であるという現実から、自分自身の詩を
 産み出すという決意だった」 (「現代詩と私」)

黒田はカミュ同様、あるいはより徹底して自分を
「歴史を作る側ではなく歴史を生きる側に身を置いた」のである。
無名性の中へ。吉本のことばを借りれば「大衆の原像」の中へ。
荒地派の詩人は鮎川をはじめ大好きなひとが多いが、
生き方の姿勢でいうと私が決定的に影響を受けたのはこの黒田だった。

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          吉本隆明 (1924-2012 命日3月16日) 詩人 思想家

荒地派の戦前のモダニズム詩にたいする批判を
文学者の「戦争責任論」として果敢に、明快に、そして全面的に展開したのが
「荒地新人賞」受賞後、同人として参加した吉本隆明だった。


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2年次の暮れか、開けて春の頃だったか、注文して取り寄せた
「芸術的抵抗と挫折」と「抒情の論理」を読み、茫然とし、そして愕然とした。

吉本は痛烈に批判を展開していた。
戦前・戦中、文学者たちはみなこぞって翼賛文学を書いた。戦争を賛美し、
国民を戦場へ駆り立てた、と。そして敗戦後、
そのことを自己批判した文学者は誰もいない。二人を除いて、と。

ひとりは翼賛文学をひとつも書かなかった太宰治だった。
そしてもうひとりは、自分が翼賛詩を書いたことで自責の念に囚われ、
遠く蟄居した高村光太郎である。

戦中・戦後のことをまだほとんど何も知らなかった私は本当に愕然とした。
震える気持ちを抑えながらこの「芸術的抵抗と挫折」と「抒情の論理」を
何度も読み返した。

この時の衝撃はいまなお私の中でトラウマ化している。

※吉本の生涯における膨大な仕事へのエネルギーと、いま現在を生きている
文学者にたいしての厳しさは、戦前・戦中、自分が皇国少年だったことへの
内省があったからだと私は思っている。




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左)太宰治 (1909-1948) 右)太宰治記念館「斜陽館」

太宰は1945年4月、甲府の石原家(妻の実家)へ疎開したが、7月、
爆撃で石原家が全焼し、妻子を連れかろうじて津軽にある生家へと逃れた。
(青森県五所川原市にある生家は現在、太宰治記念館「斜陽館」に)

若い頃、私は太宰は嫌いだと友人たちに公言していた。
本当は大好きでほとんど読んでいたのだが、好きだと言ってしまうと、
なぜか自分が死にたくなるような気持ちに襲われてしまうからだった。
太宰文学は間違いなくそうした魔力を秘めている。
実母がわからず死への傾斜が烈しかったせいだろう。

妻・石原美知子との間に次女として生まれたのが作家の津島佑子だが、
その津島さんと「週刊ブックレビュー」でお会いし、ひどく嬉しかった。
また同番組で立松和平と太宰をめぐり、大喧嘩をしたことがあった。
立松が太宰のことを「ただのナルシストだ」と軽蔑したからである。
軽蔑されるべきはどっちだと私はいまも立松を許していない。
ノー天気さに反吐が出る。




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左)光太郎と千恵子 右)高村記念館

1945年10月、光太郎は花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住み、
7年間独居自炊の生活を送った。(現在、その小屋は高村記念館になっている)


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駒込・染井霊園にある高村家の墓の前にて

光太郎・千恵子の墓は駒込の「染井霊園」にある。
父光雲と一緒に眠っている。

駒込にあった新転位の稽古場から徒歩5分ほどの距離だったので、
私は時どきこうやって訪れた。
光雲・光太郎・千恵子の墓に背中を向けて座るなど言語道断だが、
子供の頃から光太郎を友だちみたいに読んできたので、参るとどうしても
つい友だち気分に襲われてしまうのだ。許してほしい。

※染井霊園のあるあたりは「ソメイヨシノ」の発祥地と言われている。


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左)芥川龍之介 (1892-1927) 右)芥川の墓 (慈眼寺)

ちなみに霊園そばの慈眼寺(巣鴨)には、太宰が師と仰いだ
芥川龍之介の墓もある。
漱石-芥川-太宰は、私の中では1本の大きな美しい川の流れである。


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十和田湖 光太郎の「乙女の像」

後年、十和田湖を訪れたとき私が撮った写真である。


※ 二十四時間の情事_1
※ 二十四時間の情事_2
※ 二十四時間の情事_3

※ 二十四時間の情事_4

※ 二十四時間の情事_5


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■91分 フランス/日本 ドラマ/ロマンス
監督: アラン・レネ
製作: サミー・アルフォン 永田雅一
原作: マルグリット・デュラス
脚本: マルグリット・デュラス
撮影: サッシャ・ヴィエルニ 高橋通夫
音楽: ジョヴァンニ・フスコ ジョルジュ・ドルリュー
出演
エマニュエル・リヴァ
岡田英次
ベルナール・フレッソン
アナトール・ドーマン

独軍の占領下にあったフランスの田舎で、敵兵と密通して断罪された過去を持つ女優が、ロケのために広島を訪れ、日本人の建築家と一日限りの情事に耽ける。そして知る、広島の悲劇。時あたかも8月6日。原水禁運動を背景に、二人の孤独な会話が続く……。
焦土から奇跡の復興を遂げたその町は、死の影を決して忘れることはない。夜を縫うS・ヴィエルニのカメラの怜悧なこと。意識の流れ的手法で、大戦の中での個人の苦渋を余すことなく語ったM・デュラスの脚本を、完璧に映像化したレネの最高傑作だろう。

 
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