山崎哲_ひと・こころ・からだ

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zoom RSS 「二十四時間の情事」にまとわりつく私の「ヒロシマ」体験

<<   作成日時 : 2014/08/26 17:39   >>

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この映画には
私の原体験とでも言うべき「ヒロシマ」の記憶がまとわりついている



「24時間の情事」が公開されたのは1959年6月である。
6年後の1965年4月、私は広島大学国文科に入学し、5年間を広島で過ごした。

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映画の1シーン「上空から見た広島」

広島の中心街は太田川のいわば三角州地帯に立っている。
大学は東千田町にあった。私ははじめ隣接する平野町のアパートに住み、
のち皆実町、宇品西へと所を替える。

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映画の1シーン「広島駅・待合室」

私が大学を広島の地に選んだのはそう言ってよければ、
女(エマニュエル・リヴァ)が広島の夜の街中をうろついたように
「ヒロシマ」をうろついてみたかったからだ。

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修学旅行 長崎・浦上天主堂(被曝のほぼ中心地)だったと思う

理由があった。
中学三年の修学旅行で長崎へ行ったとき、みんなで病院を訪れた。

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映画の1シーン「広島の病院」

被爆者を見舞うためだったが、そこである被爆者男性に出会い、
以降、数年その被爆者男性と交通した。

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斎藤さん(中央・男性) 宮崎にて

被爆者男性の名を斎藤さんといった。
入院先の病院から宮崎へご招待したことがあったので、
傍目には被曝患者には見えなかったが、
その斎藤さんは私がこれまで一度も出会ったことのない人間像だった。

50年を経たいまでも鮮烈に記憶の中にあるが、
寡黙で、静かで、まるで死にながらにして生きているかのようなイメージだった。
あるいは「深淵」に棲む、とでも形容すればよいのか。

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グラバー庭から眺めた長崎 (現在)
広島が川の街だとすれば、長崎は港の見える坂の街だ


斎藤さんの静かさ、
寡黙、あるいは沈黙は私にある人間を思い起こさせた。
私の父である。

父は喋らない訳ではなかったが、喋っても心の内が見えなかった。
そのため私は父に「寡黙さ」を感じていたのである。
しかも父はたまに機嫌がいいことはあるものの、総じて「不機嫌」だった。

私は中学のころから家にあった漱石全集を読みはじめたが、
読んでいるうちに何だか父の不機嫌さが漱石のそれに似ているように思えた。
漱石を読むことで私は父の時代を理解しようとしはじめていた。
それがずっとのちまで漱石を愛読する契機になった。

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故郷の実家 火事で焼け現在はない 
昭和20年代、この庭でよく映画を観たり、「ドサ廻り」一座の芝居を観たりした
父が上映したり、北九州の一座を呼んだりしていたからだ


父の沈黙、不機嫌さの理由を知ったのはずっと後のことである。

27歳の年、私は帰郷し、妻と式を挙げた。
挙式を控えた前日実家へ帰ったときのことである。
父は私の目の前に見たことのない一枚の古い写真を差し出した。
その写真はのちに実家が焼けたとき焼失したと思うが、
ちょうどこんな写真だった。

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映画の1シーン「広島平和記念資料館から平和公園を見た風景」

手前に広場があり、そこにはゆうに100人を超える死体が散乱していた。
広場のずっと向こうには建物が横に広がり、その建物の下に
銃を構えた日本兵が数十人横一列、こちらを向いて並び立っていた。
父はその日本兵を指し、「この中におれがいる」と言ったのである。

私は父が戦時中、満洲へ出兵したことは知っていた。
だがそれだけでほかには何も知らなかった。聞かされていなかった。

私がここはどこかと聞くと、父は「中国」と言った。
中国のどこかと尋ねると北京と言ったような気がするが、
どこだったのかいまはもう定かには憶えていない。

写真の光景はいまでもはっきりと脳裏にあるが、
その時の私の印象はこの写真とほとんど同じだった。
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映画の1シーン「被曝数日後の広島」

崩壊。あるいは廃墟…。

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長崎の「キノコ雲」 投爆直後

映画の中で猫が現れる。
ヌベールの地下室に現れる黒い猫と、広島の平和公園に現れる白い猫だ。
女はなぜかその猫に見入られるのだが、
あの黒と白の猫を見るたびに私はこの写真のキノコ雲を思い出す。
デュラスはもしかしてこの写真を見ていたのではないかと思ってしまう。
そんなふうに妄想してしまう私がいる。

私自身はと言えば、
この光と影のキノコ雲に「斎藤さん」と「父」を見ていた。


父の寡黙、不機嫌さの原因は長じるにつれ、
戦争へ行ったことと何か関係あるのではないかと疑ってはいた。

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戦争が終わりすでに10年数年経つのに、
朝、床を出ると父はきっと仏壇と、昭和天皇と香淳皇后の御真影を拝し、
それを一日も怠ることなくただ黙々と続けていたからである。

父がなぜ私の結婚のときに、しかもはじめてその写真を見せたのか
聞かなくてもわかるような気がした。
たとえ聞いたところで父は言葉では言い表せなかったとおもう。

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今では想像もつかないだろうが、私たちの世代は子供のころ
「原爆の子(1952)」や「二十四の瞳 (1954)」、「ビルマの竪琴 (1956)」といった
反戦映画・戦争映画をごく当たり前のように見ていた。

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一方では誰もが、米ソの核戦争がいまにでも勃発するかのように感じていた。
その頂点が「キューバ危機」だった。近年の映画では
「ジンジャーの朝」(英 2012)に当時の雰囲気がよく描かれている。

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60年安保闘争時、先生たちは授業をすべて休みにし、鉢巻をし、
街中のデモに加わった。私たち子供は先生たちのその背中を見て育った。
そんな時代だったのである。

先の一枚の写真は後年のことだが、そんな中いつしか私の中に
人類が、世界がはじめて被曝を体験した「ヒロシマ」へ行ってみたいという
気持ちが生じていた。

それこそ「女(エマニュエル・リヴァ)」ではないが、
長崎の被爆者「斎藤さん」と「父」の静かさ、寡黙さ、沈黙について
誰にも一言も語ることなくきたからだろう。

そのことを語るのはいまがはじめてである。
書いておこう。そう思ってじつは「二十四時間の情事」を
8月15日に観ることにしたのだった。

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実家のそばを流れている川 当時はもっと水量豊かだった
故郷の村の名は「鏡洲」 鏡のように透きとおった川の流れる村(州)
私はこの川で年中釣りを楽しみ、夏には泳ぎを楽しんだ


進学で言えば東京へ行きたいという気持ちもあったのだが、
父は私を宮崎から、九州から出したがらなかった。
交渉して広島まで距離を伸ばしてもらったところで母が倒れた。
高三の12月下旬、脳梗塞。進学の騒ぎどころではなかった。

一命を取りとめたものの病院へ搬送できる状態ではなかった。
町医者に来診してもらう傍ら父は不眠不休で母を看病した。
黒かった父の髪が一週間で真っ白になった。

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父と (1982年) 岸田賞受賞パーティに上京したとき 下北沢ザ・スズナリ
父との写真はこの1枚しかない


2月、とりあえず広島大を受験、ほかにはどこも願書を出さなかった。
病床の母を思うと進学のことなどどうでもよかったのだ。

合格の通知が来た。
半身不随の母もすこし回復の兆しをみせはじめたので、
4月、私は広島へ向かった。

入学式前夜、私は盲腸を手術。悪化して1ケ月ほど皆実町の病院に入院。
4月下旬、母は二度目の発作を起こして他界。
見舞いに広島を訪れた兄にそのことを知らされた。

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映画の1シーン「撮影当時の広島」 (1958) 中心街ではない

はじめに言ったように大学近くの平野町のアパート二階へ住んだ。
太田川のすぐ近くだった。
入居したのは五月も連休を過ぎてからだったが、そこで私は偶然にも
広島の被爆者夫婦に出会ったのである。

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映画の1シーン「太田川」

アパートの隣の部屋に住む渡辺さんご夫婦だった。
当時40歳代ほど。ちなみに私の本名も渡辺である。

どうしたいきさつでご夫婦が被曝者だと知ったのか憶えていない。
また被曝者だからと私が被曝体験についてお尋ねしたことも、
ご夫婦のほうからその話をされたことも一度もない。

どういう訳かご夫婦は私のことをなにかと気にかけてくださった。
よく声をかけていただき、食事時になるとこれ作ったから食べなさいなどと
頂きものをしたりした。たぶん私が病み上がりで、
九州の田舎から出てきた学生だと知り、気にかけくださったのかと思う。

それを別にして私はこの渡辺さんご夫婦にひどく心をうたれた。
いつも笑みを浮かべた、穏やかで、そして長崎の斎藤さん同様、
とても静かな、ほんとうに素敵なご夫婦だったからである。
いまもその表情を鮮やかに脳裏に浮かべることができる。

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映画の1シーン「上流のほうから眺めた原爆ドーム」

そのころ毎夜漱石を読みふけっていた私は
ご夫婦をよく「門」の中の宗助・御米に重ね合わせた。
その静かさは宗助・御米同様、心の中に途方もなく重いものを
抱えていらっしゃるから生まれるのだろうと想像したのだ。

長崎の斎藤さんも、私の父もだが…。

ある日私はその渡辺さんご夫婦がクリスチャンで、
教会へ通っていらっしゃることを知った。
それまでキリスト教に関心を寄せたことなど一度もなかったのだが、
以後10数年、私は聖書を読み、キリスト教について独学をした。

その影響は後年、私が劇を「祈り」によって作ろうとしていることに
表れているのではないかと思う。
実際、私の舞台は「祈り」だと察している友人が何人かいる。

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映画の1シーン「撮影当時の広島平和記念資料館」

講義へ通えるからだになると私は広島をうろつきはじめた。
うろついてみたい思いで広島へ来たのだから。

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映画の1シーン「広島平和記念資料館の中」

うろついてどうしようという訳でもない。
あえて言えば広島の空気を吸ってみたかっただけだ。

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映画の1シーン「本通り。突き当りは新天地?」

私は現実に起きた事件を下敷きに本(戯曲)を書いている。
書くときは余程の事情がない限り事件現場を訪ね歩くのだが、
その癖は私のこの「ヒロシマ体験」から来ている。
歩いて、うろついて、現場の空気を吸う。現場に多少なりとも身を沈めてみよう
と思うのだ。

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映画の1シーン「積善館書店」

本はたいてい大学の前の書店か、この積善館書店で買った。
戦後文学は図書館や広島の書店では手に入らないことが多いので、
年に2度、高校時代の先輩・同級生を頼り、リュックを背負って上京、
早稲田や神田、江古田などの古書街をうろつき、購入した。

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映画の1シーン

中心街、その周辺まではほとんど歩いても行ける距離。
街には7本の川が流れているのでどこへ行くにもたいてい橋を渡る。
街はすべて1958年、撮影当時。
私が住んだのは7年後だから、この頃より整備されていて綺麗だった。

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映画の1シーン

東映の映画を観るときはここ。大映の映画は皆実町の映画館。

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映画の1シーン

洋画の場合はここか、広島駅前の映画館。まだあるかどうか。

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映画の1シーン

こうやって釣りもした。本拠地はたいてい海にすこし近い御幸橋の下流。
広島は魚が安くてとても美味しかった。
5年後の3月下旬、私は上京するのだが、そのせいで東京の魚はまずくて
しばらく食べることができなかった。

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広島名物のお好み焼き(現在)。

皆実町へ越したあと、銭湯の帰りいつも5丁目のお好み焼き屋で食べた。
値段は当時1個15円ほど? 写真とはかなり様相が違うが、
味が絶品だったおかげで東京のお好み焼きはいまだに食べられない。

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映画の1シーン「中心街・紙屋町〜八丁堀」

映画の中の広島はほとんど私もうろついたことのある場所である。
この映画に愛着を抱くのも当然である。

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映画の1シーン「八丁堀にあるデパート福屋」

広島時代の写真は私の手元には1枚もない。
何枚か持っていたはずなのだが、引っ越しを重ねるうちに紛失した。
なのでこの映画だけが私の広島時代のアルバムなのである。

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「広島市民球場」 (現在)

映画には登場しないが当時原爆ドーム前にあった市民球場にもよく通った。
たいてい地元の友人と一緒で、ライトスタンドに潜り込みカープを応援。
本当は巨人ファンだったのだが、地元ファンに知れると叩き出されるので
5年間カープ・ファンを押し通した。友人以外の前では。

乗ったタクシーの運転手にたまたま巨人ファンだとバレて
タクシーから降ろされたこともあった。

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映画の1シーン「流川附近」

飲み屋街。近くに歌声喫茶もあり、私たちの夜の遊び場だった。
ある夜バーで飲んでいると近くで銃声の音が聞こえ、
慌ててカウンターの下に潜り込んだこともあった。
当時広島は、深作欣二監督がのちに「仁義なき戦い」で描いた
打越会と山口組の抗争(広島代理戦争)の真最中だったのである。

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東映映画「仁義なき戦い」

流川で飲み、深夜、平野町のアパートへ歩いて帰る途中、
「100m道路」付近でヤクザの若い衆と思われる数人に囲まれ、
サイフをカツアゲされたこともあった。あのとき私は別段
怖いとも思わなかったし、恨む気持ちにもなれなかった。どうしてだったのか。

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中国新聞広島本社 (現在)

在学中、中国新聞は暴力団追放の大キャンペーンを張り、
それを境に山口組は広島から撤退したのだったとおもう。

5年次の春(1969年)、
私は新聞社の記者に呼ばれてこのビルの一階ロビーへ行った。
記者を見つけて近づくと、記者と言葉をかわす前に
そばに座っていたスーツ姿の若い男性がスクと立ち上がり、
学生の私にバカ丁寧にお辞儀をし、名刺を差し出した。

名刺には「劇団状況劇場 唐十郎」とあった。

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唐十郎(帽子) 四谷シモン 大久保鷹、私ほか 2013年6月新宿花園赤テント内 

舞台を観たことはなかったが、
私は偶然古本屋で手に入れた処女戯曲集「ジョンシルバー」を読んでいた。
寺山修司率いる天井桟敷との乱闘事件も西口事件も耳にしていたので
想像していた唐十郎とあまりにも違っていた。
目の前の人物はまるで洗剤を売り歩くセールスマンだったのだ。

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南下興業のひとつとして8月に広島で公演したいということだった。
すぐに広島大学へ案内するとバリケードの中に入るのははじめてだとのこと。
私はまた驚いた。舞台を観たことはなかったが、
当時、状況劇場は全共闘世代の圧倒的な支持を得ていたからだ。

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映画の1シーン

現地制作の手伝いをし、8月、街中の路地で打たれた公演を観る。
舞台は、路地に止められたトラックの荷台。
なにかも驚くアングラ舞台だったが、全身に
血だらけの包帯を巻いた堕胎児たちが登場したとき止めを刺された。
「原爆の子」やこの「二十四時間の情事」などで見た被爆者のイメージ
とまっすぐに折り重なったからだ。

その日、機動隊がバリケード封鎖中の広大へ突入。

公演を手伝っていたので翌日に知らされたのだが、
唐十郎との出会いで私は迷っていた先の道を決めた。

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映画の1シーン「下流のほうから眺めた原爆ドーム」

映画には登場しないが、
この川の上流、左手の川沿いにじつは「部落」と呼ばれる集落があった。
私が知ったのは広島へ来てだいぶ経ってからのことだった。

事情を知っている人物がその部落には三つの部落があると語った。

「被爆者被差別部落」
「在日朝鮮人被差別部落」
「日本人被差別部落」

話によれば、その差別されているひとたちが集落の中で
互いに差別をし合っているということだった。
私の驚きは大きかった。
故郷にいるころ私が「部落」を身近に知らなかったせいもある。

ニ、三度、意をけっして歩いてみたことがあるが、
粗末な小屋が肩を寄せ合うように立ち並んでいた。
先の事情で「差別」「被差別」の問題を皮膚感覚的になかなか捉えることが
できなかった私だが、すこしばかり異様に見えるその風景に
胸が締めつけられた。

後年、広島時代の友人に聞かされた話によると、
その一角は区画整理で取り壊され、住民たちは
川のさらに上流に建てられた集合住宅のほうへ越していったという。


※ 二十四時間の情事_1
※ 二十四時間の情事_2
※ 二十四時間の情事_3

※ 二十四時間の情事_4

※ 二十四時間の情事_5


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■91分 フランス/日本 ドラマ/ロマンス
監督: アラン・レネ
製作: サミー・アルフォン 永田雅一
原作: マルグリット・デュラス
脚本: マルグリット・デュラス
撮影: サッシャ・ヴィエルニ 高橋通夫
音楽: ジョヴァンニ・フスコ ジョルジュ・ドルリュー
出演
エマニュエル・リヴァ
岡田英次
ベルナール・フレッソン
アナトール・ドーマン

独軍の占領下にあったフランスの田舎で、敵兵と密通して断罪された過去を持つ女優が、ロケのために広島を訪れ、日本人の建築家と一日限りの情事に耽ける。そして知る、広島の悲劇。時あたかも8月6日。原水禁運動を背景に、二人の孤独な会話が続く……。
焦土から奇跡の復興を遂げたその町は、死の影を決して忘れることはない。夜を縫うS・ヴィエルニのカメラの怜悧なこと。意識の流れ的手法で、大戦の中での個人の苦渋を余すことなく語ったM・デュラスの脚本を、完璧に映像化したレネの最高傑作だろう。

 
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