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zoom RSS 軍都さがみはらの神社〜よすがをあつめた場所〜

<<   作成日時 : 2010/08/18 04:07   >>

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軍都さがみはらの神社
〜よすがをあつめた場所〜

西牟田 希
(編集者・ライター養成講座18期生Bクラス)



受験生の守り神

 除夜の鐘を聞くともなく長い列ができている。
白い息をついで手をすりあわせるのは受験生とその家族たちだ。
神奈川県相模原市にある、小田急相模原駅前に二宮尊徳を祀った二宮神社がある。
マンションと県道に挟まれた小さなお社をまばらな松が囲う。
丁寧に清められた境内は、合格祈願の受験生と家族連れの参拝でにぎわう。
 付近に住む人々は、受験や就職、厄年など、人生の節目にお世話になっている。

相模原市にある二宮神社

 二宮尊徳というと、薪を背負って本を読む尊徳像がうかぶ。
学問の神様か、勤勉の神様か。
二宮尊徳を祀る神社はいくつかある。
二宮尊徳出生の地である神奈川県小田原市にある報徳二宮神社。
農村復興の執務をとった栃木県芳賀郡二宮町物井にある桜町二宮神社。
生を終えた栃木県日光市にある今市報徳二宮神社。

終戦直後に村人の手で作られた神社 

 なぜ、相模原市に二宮神社があるのか。
「終戦直後、お祭りができ、皆で集まれる場所を作ろうと神社をつくることになった。」
と語るのは二宮神社氏子総代を務める小山徳考(八三)。
小学校教諭時代、「子供たちに教科書そのままの授業をするのではなく、自分の足で集めた話で授業をする」ことを胸に、二宮神社が造られた当時にまつわる人に訪ね歩いたという。
二宮神社は、終戦直後の昭和二十二年に地域の人の手で造られた。
松林の土地を地主に提供してもらい、お金は皆で工面した。
若い人は松の木を切り出し、年寄りは土をならしたり、みんなで力をあわせたという。

お祭りだけが皆で楽しむ場所

 鈴木トメ(故人)は二宮神社創建時についてこう語ったという。
「近くにお祭りができる神社がなかった。
男は手伝いによく行ったが、女、子供はなかなか行けないため、近くにお宮をつくることになった。」
お祭りだけが、地域の人が集まりみんなで楽しむ場所だったから、という。

当時はGHQの占領下にあり、戦神を祀るのは禁止されていた。
そこで、農村復興の象徴とされた二宮尊徳を祀ることになった。
当時、小学校に、報徳教育を高めようと、二宮尊徳の石像が配られたという。
「当時の小学生は、小学校敷地内にある二宮尊徳像に一礼してから集団下校していた。」と小山は当時を思い出す。
二宮尊徳生誕の地である小田原市二宮報徳神社より、御霊わけしてもらい、祀った。

「そこにあるのが、初代のお宮の台座石です、」
手水場の横に、縦一メートル、幅四十センチ、高さ三十センチほどのかまぼこ状の石が五十基ほど、積み重ねられている。
ふるい石にうっすらと苔がかかっている。
 昭和三十年、初代のお宮から、現在のお宮に大きく改築した際外すまで、二宮神社の台座石として支え続けた。
「それは、ここから二キロほど離れたところにあった電信神社の台座石だったものです。」
こわされた電信神社から、お宮の土台石を外し、苦労して運んで来たものだと言う。

電信神社
 
 電信神社とは何か。
 昭和十四年二月、中野から相模原に転営してきた電信第一聯隊(通称東部八八部隊)敷地内に祀られた神社である。
当時は軍が自分たちの守り神として神社を造ってたという。

 電信第一聯隊とは、電信通信を担う部隊で、作戦行動の要の一つになった。
転営してきた同聯隊の大多数は、昭和十六年一月より第二五軍司令官山下奉文中将麾下に入り、太平洋戦争に参加した。
留守部隊が電信第一補充部隊を編成し、通称「東部八八部隊」と称された。
編成人員は昭和十六年一、五〇五名、同十九年一、七七〇名、同二〇年二月五一一名であった。
 皆一般から募集された補充要員で、電話局や郵便局など、電信業務経験のあるものは二、三名にすぎなかったという。
電信第一聯隊に入隊後、通信関連の訓練を受けて早々に前線に送られた。

 電信神社は、電信第一聯隊敷地内の守衛所から入って兵舎をぬけたつきあたりにあった。
電信神社前の広場で、朝礼、教練が行われていたと言う。

軍都さがみはら

 昭和十一年、本土決戦の最終防衛ラインとして、相模原を軍都にしようと大規模な土地買収が行われた。
軍の圧力のもと、印をつくしかない状況だった。
開拓して造ったぶどう園、桑畑から、移転して来た主要軍施設へと変貌を遂げた。
 電信第一聯隊に隣接して、相模原陸軍病院が建設された。
電信第一聯隊の南に現在の小田急線二駅分に相当する広大な陸軍士官学校練兵場、相模陸軍造兵廠、陸軍兵器学校が相次いで建設された。

軍施設内の神社 雄健(おたけび)神社と細矛(くわしほこ)神社

 終戦まで陸軍将校を輩出した「陸軍士官学校敷地内に雄健(おたけび)神社がある。
陸軍士官学校生が毎朝、社頭に額づいて参拝し、精神修養の場とした。

 また、風船爆弾(こんにゃくのりで貼り合わせた和紙の風船に焼夷弾をぶらさげ、風にのせて太平洋を渡りアメリカ本土を攻撃するための爆弾)を造るなど、兵器を造る技術を修得するための陸軍兵器学校に、細矛(くわしほこ)神社が建てられた。
「当時在校の同窓諸氏は、雨風や雪の日も毎朝参拝し、あるときは玉砂利をきれいに清掃した思い出も多いことと思います。」
当時の同窓生にむけた会報「我が青春の陸軍工科兵器学校マップ」(平成元年六月十一日)に細矛神社について記されている。


電信第一聯隊の軍隊生活
上原一一(ひとかず)の入隊
 「朝、起床ラッパで飛び起きて整列する。最後から十人は電信神社にお参りに行かされた。」と「信州年寄り通信」で当時を語るのは上原一一(ひとかず、当時二十歳)。
昭和十八年四月入隊との命が、長野県松本に住む上原と友人の百瀬敏彦にあった。
神奈川県相模原という、場所もよく知らなかったという。
集合場所に行くと六十人はいて驚いた。
聯隊の他は何も無く、「広い野原にぽつんと聯隊があった」という。
柏崎駅員として勤めた経験のある上原は号令をかけて誘導し、古年兵に渡すと驚かれた。
「駅で号令をかける練習をしていてこんなときに役に立つとは。」

初めての軍隊生活

 赤飯を炊いて迎えられた上原たち新兵は早速軍隊生活に驚かされる。
支給された靴の左右の大きさが違うことを言うと、
「靴を足にあわせろ」
と言われた。
上原は入浴のおり、その左右の異なる靴が無くなっていたという。
下駄箱に別の中隊の下士官が脱いだ上等な靴をみつけ、なにくわぬ顔ではいて帰った。自話をきいた同室の上等兵が
「はしっこいものだ」とほめたという。
「軍隊に入って人のものを盗んだのは初めてだった。軍隊ではあたりまえのことだとつくづく思った。」

内務班教育
 
 訓練のほかに、班長が決めた教育内容が各班員に対し適宜施された。
 別の班にふりわけられた百瀬は、班長の考案した『犬はワンワン』をやった。
四つ足で中隊を一周する。百瀬はよくやらされていたという。
上原はやったことがないという。

好きな女の人の名前を言え

 上原の班長はある日、ひとりずつ班員を呼び出した。
「好きな女の人の名前を言え」
という。上原は
「堀川文子、北澤その江」
と答えた。
「よし、はっきりしていて宜しい」
とほめられた。
他の班員は、もじもじしていて駄目だ、という。
堀川文子は従姉妹で、北澤その江さんは盲腸のときにお世話になったひとであった。

南京虫退治

ある日、どの班も、南京虫退治をするという。
寝るときに寄ってくる南京虫を一番取ったものに褒美をくれる。
上原は考え、角棒に穴をいくつもあけて寝台の下においた。
南京虫が一番とれた上原は煙草をもらった。

久しぶりの外出日

 「会う人が女の人ならば綺麗にみえる」という。
久しぶりに見る女の人は美しくみえたという。
 上原は新宿で映画を見ようとおもいたった。
映画館で『灰田勝彦』を上映していた。
映画館には同じく外出した一等兵ばかりで、敬礼のし通しだった。
一つでも星の多いものをみかければ敬礼ばかりだったという。

モールス信号競技会

 モールス信号を初めて習う人と、既に知っているひとにわかれての競技会があった。
通信教習所を卒業し、駅員として従事していた上原は、一分間に百十の信号を受けられた。
五十名の既習者のなかで一位になったという。


兵隊さんによる兵隊さんのための演芸会

 今日は中隊全員で演芸会をやる、という指示があった。
電信神社の前に仮設舞台が造られ、各自が芸を披露した。

「駅近くの和菓子屋が、第一聯隊で演芸会をやるときに、饅頭を売りにいった。
近所のひとも招かれて演芸を見に行っていた。」と小山は語る。

「元気の良い者が歌を唄った」と上原は語る。
上原は「米山甚句」「佐渡おけさ」「伊那節」「十日町音頭」を歌ったという。
二回ほど演芸会をやったが、少しも困らなかった。
「百瀬君はできなくて困ったようだ。」

その後、三ヶ月して上原はシンガポールへ送られる。

「上原さんは、一度脳梗塞で倒れて右半身が麻痺状態だった。
左手で鉛筆を握り、リハビリをかねて戦争の手記を寄せてくれた」
と語るのは信州年寄り通信の編集を担当した松本市今井出張所所長の藤波。
戦争を経験した高齢者の生き甲斐になれば、と、手記を寄せてくれる人を募集した。
ボランティアでの編集を十年つづけたという。
十一回にわたり、入隊から終戦、結婚まで書き綴った上原が、
「もう一度発作で倒れたと奥さんから伺ってより消息が分からない」という。


 現ダスキン城北会長 鯨井金吾(八三)は「電信神社について知らない」という。
終戦の約二ヶ月前、「来る(昭和二十年)「六月十五日 神奈川県相模原第八十八部隊に入隊せよ」との通知書が鯨井のもとに届いた。
「知らない土地のことだった」と鯨井は語る。参拝や演芸会などはなかったという。

大声で軍隊言葉を怒鳴らないとビンタ四発

 入隊した鯨井を迎えたのは軍隊言葉の教育だった。
「・・・であります」、返事は「はいそうであります」を怒鳴るようにこたえる。
声がちいさかったり、普通の言葉で返事をするとビンタがとんだ。
また、赤飯で歓迎されるときいていたのに、出て来たのはうす赤い「稗ごはん」だったという。

無線訓練

 朝から晩まで「「ツート」「ツーツー・トト」「トト・ツーツー」という音から
アイウエオに置き換え、言葉を作る訓練を行った。
歩きながら声に出して練習し、手首は打ちやすいように常にぶらぶらさせていた。
休み時間に放心していると、近くを車が「ブーブー」と音をたてて通った。
教官が「今、(車の音が)何と言ったか」ときかれる。
答えられないと、ビンタがとんだ。
また、「郵便局や、鉄道の現場でモールスを仕事にして来た人にはどうやっても勝てない」ことが分かったという。
鯨井を含めた未経験者は朝四時に起こされての特訓となった。
その後、鯨井は銀行勤務経験を活かして厚木の本部経理室配属となり、そこで終戦を迎えた。

 高橋初男(八二)は同じく終戦直前の昭和二十年七月一日、電信第一聯隊に入隊した。
「激しい訓練ばかりで、終戦まで、演芸会などは無かった。兵舎と演習場以外に外出はなく、電信神社が敷地内にあったことも知らない」という。
モールス信号未修得の高橋は、電信線の建設班になった。
入隊後すぐに通信線を建設する訓練が始まった。
 直径十cm 長さ二m位の木製電柱と、直径五十cm位の電線を巻いた胴乱を担いで演習上を走り回ったという。
「真夏の演習場は乾いた土ぼこりが舞い上がり、全身土まみれになり、意識が朦朧状態になったこともあった。木陰で休憩のときは疲労で直ぐ居眠りになって上級兵に怒鳴り起こされた。」
 
 激しい訓練の一ヶ月半後、終戦を迎えた。
「8月15日は朝からの訓練は中止となり、正午に営庭に全員集合し、昭和天皇の終戦勅語を聞いた。」という。
ラジオ放送は雑音まざりの「終戦・敗戦」をくりかえしていた。
終日、本部前では文書焼却の煙が絶えなかった。

 まもなく、厚木飛行場にマッカーサー総司令官以下が進駐するので、旧日本軍は直ちに、周辺から退去することになった。
「部隊は小田急電車で新宿経由、埼玉県豊岡に移動した。
1ヶ月半ぶりに見た町なかや電車内の人々の様子はホッとした、落ち着いた様子であった。兵服集団の私たちを見て、「いまごろなに・・」というようであった。」と語る。


終戦後の神社 細矛神社

集背直後、進駐軍を恐れた在校将兵が去った後、陸軍兵器学校に近在のひとが残された物資をもとめて殺到した。
細矛神社があらされるのをおそれた一部の地元のひとたちが力をあわせ、苦労して校外に運び出した。
その後、地元の新田稲荷神社に手厚く合祀された。

雄健(おたけび)神社の最後

 終戦直後、雄健神社前で自刃した在校生もいたという。
「陸軍士官学校」(秋元書房)に「進駐米軍に辱めをうけることをおそれ」、生徒を選び出し、ひそかに神霊を地下に埋めて隠すことにしたと記されている。
身を浄めた生徒二人の手により、八月二十日から二十五日までかかり深さ三メートルの穴が掘られたという。
社殿から神剣、宝鏡を取り出して白布で覆い、塩をまいてきよめた土の中に埋めた。
 その後、昭和四十年、士官学校出身有志と自衛隊の手によって掘り起こされ、靖国神社に奉安された。

電信神社

 相模原に二宮神社を作る話になったとき、「電信神社はどうなったのだろう」という話になった。
饅頭を売りに行き、兵隊の演芸会を見たことを思い出したのだ。
見に行くと、宮がこわされ、石が散らばっていた。
「電信第一聯隊がひきあげるとき、壊して行ったのでは」と小山は語る。
お宮の土台石を、「お宮の土台石を放置してはもったいないから」と二キロに渡り、五十基の石を運び出した。
電信神社の土台石をそのままに、二宮神社が造られた。

軍用地払い下げの開拓時代

 当時接収されていた広大な軍の施設の用地が次々と払い下げられた。
土地払い下げを当て込んで開拓民が一気に流入した。
新旧の開拓民同士、集う場所として、二宮神社での祭りが楽しまれた。


国立相模原病院

 戦中、昭和十三年に移転して来陸軍病院は、当時日本最大規模の医療施設だった。
傷病兵だけではなく、戦争で手足がなくなったひとの義足、義手をつけたリハビリ施設であった。
当時六千名を収容し、傷病兵の社会復帰につとめたという。
また、病院の患者や見舞客を見込んで、飲食店が林立した。
現在も近隣の駅に比べて飲食店が多いことで知られる。
終戦後、国立相模原病院と名称を替え、現在も医療施設として知られている。

米軍ハウスの建設
 昭和二十五年、陸軍士官学校の跡地に、米陸軍の司令部とキャンプが置かれることになった。(現在の座間キャンプ)。
合わせてそこに関係する軍人とその家族が住む住宅地として、電信第一聯隊の跡地を急遽提供することになった。米軍相模原住宅地区、通称米軍ハウスである。

 現在は、百〇六人(平成二十一年一月)が住む五九五`平方の米軍ハウス用地をかこんで、3メートルの金網フェンスがつづいている。
金網フェンスごしに、アメリカ映画そのままの大きい家が点在している。
中には住宅の他に、スーパー、ボーリング場、映画館、学校を擁している。
 
庭土から顔をだした電信神社

 米軍ハウスのフェンスにそって細い遊歩道が四百メートルつづく。
つきあたりに相模原市相模台小学校があり、通学路となっている。
小学生は右手に金網ごしにアメリカの住宅地を見、左手に、隣家とおしあいへしあいする日本家屋をみながら学校へと向かう。
 遊歩道がおわるころ、形部(かたべ)幸雄宅の庭先をのぞくと、白御影の石碑が見える。
【電信神社】とある。

 昭和三十年に現在の土地を購入した相模原市南台の形部(かたべ)幸雄さん(八七)は家を建てる際、庭大工が「土の中から石碑が出て来た」という。ちょうど墓石くらいの石に
【電信神社】とある。
裏面に【昭和十一年招集 第二・第三・第九中退下士官兵有志寄進】とあった。相模原市に届け出たところ、『引き取れないからお宅で預かっていてくれ』というのでそのまま庭に安置した。

「あの辺りは、米軍施設をいやがった国立病院との緩衝地帯として、住宅地に払いさげられたのでは、」と小山は推測する。
国立病院が終戦後、民間のための病院として復興していたころ、米軍施設の移転の話があった。
米軍ハウスを建設する際、病院と直接隣接していては、入院患者、見舞いにくる人に恐怖感をあたえることを懸念したのでは、と語る。
病院と米軍ハウスに挟まれた奇妙に細長い住宅地に形部さん宅はある。
当時のこわされた電信神社の碑がそのまま土に埋もれていたと思われる。

訪ねて来た東部八八部隊OB

 平成元年、電信隊のOB三人が形部さん宅を訪ねて来た。
碑を見つけたOBは、形部さんの庭にあることに驚き、
「お宅の庭にあってご迷惑ではないでしょうか」
「いえ、結構ですよ」
と言ったが、申し訳ないから、と相模原市と米軍相模原住宅に交渉し元々神社のあった相模原住宅正門前に設置しようとしたができなかった。
数年後、再び訪ねて来て拝んで行った。それ以来来ていないという。
「死んじまったんじゃないかなあ、私と同じくらいの年だし。」
石碑のまわりの草むしりがたいへん、と笑まれた。


米軍ハウスの人々

 知らない土地に招集されるのは、旧日本軍ばかりではない。
「次にどこに移動するか分からないが、新しい人に会うのが好き」と語るのは、米軍ハウスに住むオリビア・トーニー(三四)。
「基地の外をジョギングしてきた」、と白いナイキのウェア。
アメリカ式の広い家のダイニングのあちこちに家族の写真が飾られている。
夫アンソニー(三十七)の座間キャンプ配属に伴い、八ヶ月前香港からに相模原に来たという。
基地の外でジョギングや買い物をして人と話すのが好き、という。
基地に住む人は、自由に外出できる。
部外者が基地内にはいるときは、基地内の人間といっしょでなければならないそうだ。
基地の守衛所に、長い銃を持つ兵士が立っていた。

 また、娘オニーシャ(十三)は将来、軍の仕事に就きたいと言う。
常に新しいところに移って新しい人に会うのが好きだからだそうだ。
ナバホ族出身のオリビアは、日本人の友人にナバホ語を教え、友人から日本語を習っているという。

「米軍ハウスは、他の基地と違って、ファミリーしか住んでいないから、トラブルがほとんどない」と語るのは、米軍基地内で英会話スクール経営望月修(もちづきおさむ)(四十八)。
「だいたい基地の外でトラブルを起こすのは、若い男性の独身の兵士。相模原住宅は家族連れしか住めないので安心です。」と言う。
「ここ数年で、米軍ハウスの子供に、日本語を習わせたいといって近くの相模台小学校に通わせている家があります。
一クラスに一人は米軍ハウスの子がいますよ」
また、一時、金網フェンスが外されてたという。
二〇〇一年九月の「9・11」事件以来、また、フェンスがもどされ、手前にあった小学校が敷地の奥に移転された。

今後の軍都さがみはら

 世界的な米軍の再配置計画により、二〇〇八年十二月、米フォートルイスより座間キャンプに米陸軍第一軍団司令部が移転した。
 米陸軍四つの常設軍団の一つで、第一軍団は太平洋地域の有事の際、約二万人の主力本隊を受け入れ、作戦指揮することになる。
相模総合補給廠に米軍作戦指揮のための訓練センター設立が予定されている。二〇一二年までに朝霞駐屯地より陸上自衛隊中央即応集団司令部が移転する。
あわせて、米軍ハウスに家族住宅が増築されることになる。
 「知らない土地」軍都さがみはらに多くの人が移転してくることになる。
かつて、電信神社、二宮神社は、集められた知らないもの同士をつないだ場所だった。
現代の人々をつなぐ場所ができていくと信じたい。

 二宮神社を左手に道の奥を臨むと、米軍ハウスの長い金網フェンスが見える。
白いナイキウェアがちらりときえた。



(了)

ご協力いただいた皆様
東京都杉並区(東部八八部隊)高橋初男様
相模原市 小山徳考様
相模原市 形部幸雄様
長野県松本市今井出張所所長 藤波様
長野県松本市中央公民館 中村様
ダスキン城北会長 (東部八八部隊) 鯨井金吾様
米軍相模原住宅 オリビア・トーニー様
マミーズ英会話スクール代表 望月修様

参考文献 
『信州年寄り通信』老人たちのつづりかた文集 第11号 上原一一 手塚英男発行
ふるさと 相模台地域の移り変わり 小山徳考 日相印刷
第二十六回工華会神奈川大会記念「我が青春の陸軍工科兵器学校マップ(平成元年六月十一日)
御創建五十周年記念誌 二宮神社 二宮神社発行 日相印刷
中学校社会科副読本 私たちの相模原 平成二十年度版 相模原市立総合学習センター
郷土史としての相武台陸軍士官学校 涌田裕 有限会社相模クリエート
保存版陸軍士官学校 山崎正男 秋元書房
ダスキン城北創業者の手記 鯨井金吾
http://www.jyohoku.com/kin/syuki.html
相模原商工発展史 相模原商工会議所
わが町の歴史・相模原 座間美都治 文一総合出版
写真集陸軍士官学校 石井幸雄 秋元書房
激流 かながわ昭和史の断面 神奈川新聞40年の報道写真から 神奈川新聞社




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内 容 ニックネーム/日時
相模原の実家の相続で、移転登記をしようと準備をしているとき、思いついて、死んだ親父の氏名を入れてGoogleで検索したら、驚いたことにヒットしました。オヤジの名前は形部幸雄。ここは電信神社の碑が建っている実家です。オヤジは、5月20日に死にました。
一般のことですが、戦争のことを詳しく聞いたことがありません。なんとなく知っている限りで言えば、オヤジ自身も通信兵であったらしい。学徒出陣で神宮を行進し、関東軍配属されて終戦。ポツダム中尉と笑っていました。シベリア抑留を経て帰国後、結婚、僕が生まれたわけです。オヤジは、逓信省に戻って、ながく、電波行政に従事していました。電信神社の碑が出てきたことは、何かの縁ということで、大切にしていたのでしょう。
僕にとって、ここは特にいい思いでもない地で、登記終了後は売ってしまうつもりで不動産屋に来てもらったら、当該碑は、壊したほうが売るにはぜんぜん良いですよとのことでした。
終戦で、日本の国体は断絶した、とする意見があります。小林秀雄さんや江藤淳さん、三島由紀夫氏も、そういった意見であったと思います。
井上揚水の歌ではありませんが、テレビでは、事業仕分け
かたべ
2010/11/18 09:05
相模原市にある二宮神社付近に引っ越してきたのですが
境内がきれいに掃除され、明るく感じのよい神社だったことから興味が湧き、このプログにたどり着きました。
新しい神社なのかもしれないですが、こういった経緯で作られたことを知って非常に親近感がわきました。

よいお話ありがとうございました。
りぶ
2014/01/11 10:32

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