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help リーダーに追加 RSS 死と光_臨死体験とオウムの修行

  作成日時 : 2005/03/24 04:36   >>

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2001/03/24記(山崎哲&新転位・21の「連載エッセイ」からの引越し記事です)

最近、ある友人からこんな話を聞いた。

肩こりがひどいので病院に行った。
目からきているのではないか
ちょっと調べてみましょうと、目薬のようなものをさされた。
次の検査までしばらく時間があったので、病院の待合室で過ごしていると
ただでさえ白くて眩しい病院内が異様なほど真っ白に見えてきた。
あたりが眩しくて眩しくて、眼が痛かった。
検査のとき医者に聞くと、眼底に異常がないかどうか調べるため
目の瞳孔が開くクスリをさした、そのせいだということだった−。

その話を聞いて私は思わずア〜ッと思った。
臨終の際、医師は必ず
患者の瞳孔が開いていないかどうか確認する。
映画やテレビドラマなどでもすっかりおなじみの光景だが
うかつにも、死んでいくとき、ということは
瞳孔が開きっぱなしになるまでの間ということだけど
そのひとに周囲がどのように見えるのか
深く考えたことがなかったのだ。ドヒャ〜ッ!

臨死体験者のほとんどが
ベッドに横たわっている自分を、自分は真上のほうから見ていた。
それからトンネルのようなものをくぐり抜け
一面真っ白な、眩しい光に溢れた場所に出た。
あんまり気持よくて、このまま向こうへ行ってしまいたいと思った。
みたいな体験を語るが、その体験は、臨死体験者の瞳孔が
ほとんど開ききった状態の体験ではないのかとおもったのだ。
かれは仮死した。つまり、瞳孔が開ききった状態になった。
そのため、周囲が異常なほど眩しい「光の世界」に
見えたのではないか、とおもったのだ。

うん。そう考えると、いくつかのなぞも解けそう。

母親におなかにいる子の目は、胎児の目は見えていると言われる。
ところが普通、出生したばかりの子どもの目は見えてないと信じられている。
実際、生まれたばかりの乳児の目はとても見えているようには思えない。
少なくとも乳児がものをしっかりと目でとらえるようになるのは
ずっとあとのことなのだ。とすると
胎児段階ですでに見えているというのはおかしいということになるのだけど
暗闇になれていたというか、暗闇のなかで見えるように調節されていたため
出生したとき、周囲の世界があまりにも眩しくみえて
その目は一時的に失明に近い状態に陥り、それから徐々に
この世界の光の量に見合った目に、その機能を再調整していくのではないか。
そのためわたしたちには、出生したばかりの乳児の目は
見えていないようにみえるのではないか。

またオウムの信者たちはよく、修行をしていると頭上から光があらわれ
やがて自分の全身がその真っ白い、異様なほど眩しい光に包まれた。
そのときセックスとは比べものにならない快感に襲われた、と語った。
わたしは長い間、その光のビジョンは
そのひとの「出生時の体験」だと考えてきたけど
そして喩として言えば、いまもそれはあんまし間違ってないとおもうけど
生理的なレベルでいえば、修行によって自分を仮死状態に追い込む
つまり自分の瞳孔を開ききった状態にもっていく。
そのため臨死体験者とおなじように、周囲が異様なほどの光に溢れたり
全身がその光に包まれたりするような体験をするのではなかろうか。
事実、かれらの修行とは、往年の修行僧のように
断食して、肉体を仮死状態に追い込むことだからだ。
そうやって「死」を体験することだからだ。

でも、それですっかり謎が解けたわけではない。
石井久子は、その修行は「真っ暗な部屋」で行われたと語っているからだ。
どの程度の暗さかわからないが、人間の開ききった瞳孔に暗い部屋が
異様なほど眩しく見えるというのはちょっと不自然な気もするのだ。


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